「ふらっとフットパス83」が令和4年10月26日(水)に楽しく開催されました!

当初10/25(火)の予定でしたフットパス83が雨の為、翌日の10/26(水)となり、若干ご参加の方が減りましたが、多くの方々にご参加いただき、最初は風がありましたが晴れた中、楽しく開催されました!
今回のフットパスは、夏目漱石の海水浴を記念して建てられた「房州海水浴発祥地」の石碑や西条八十ゆかりの地(元名海岸等)、歴史的建造物の土木遺産として価値の高い汐止橋などがある保田地区を巡りました。
●コース:(約6.6km)
集合場所(「道の駅きょなん」)→保田神社・観音寺→道の駅:保田小→保田小裏山・存林寺前経由→汐止橋→保田温泉踏切・海岸線経由→海水浴発祥の碑・別願院→駅前旅館「かずま」跡・海岸線・国道経由→集合場所へ(11時50分頃解散)
今回もご参加いただきました方々は歴史ある神社や場所や物理学者石原純の愛の物語、西条八十等の以下の説明を聞きながら、ワイワイガヤガヤと笑顔と笑い声でウォーキングと海を含めた風景を楽しまれ😊、最後の新鮮な野菜と柿を手に🤗、「次回も楽しみにしてますよ!😉」のいつもの声を残して帰宅の途につかれました!

◆保田神社:
祭神は日本武尊で、御神体は海中から出現した古鏡(神鏡)とのことです。天文4年(1535)の創設と言われ、古くは、「八宮御霊宮」と言いました。
明治時代になり保田神社に改称し、太平洋戦争前には「保田町幣帛(へいはく)料共進社」に指定されました。境内には、「征清紀年碑」、「日露戦争記念碑」や「大正天皇御即位記念塔」等あります。
※幣帛(へいはく)は、神道において神前にささげるものを総じた名称です。もともとは布地を表した語で、麻などの織物が貴重品として供えられました。現代では、布以外にも、紙、玉、衣服、酒、貨幣などをお供えします。

◆鶴崎神社(つるさきじんじゃ):
元名海岸鶴が崎に続く小丘の南山麓、通称「八幡」に鎮座。
祭神は、応神天皇(誉田別神(ほんだわけのみこと))で、慶長の末から元和のはじめ(慶長初年=1596、元和末年=1623)の頃、創建されたそうです。元禄元年(1688)本社再建立とあります。
戦前までは保田郷の郷社という社格の神社でしたので、保田全体を代表する鎮守であったと思われます。
徳川光圀が、延宝2年(1674)に水戸から千葉県の東京湾側を南下し、目的の鎌倉へ向かうのですが、その時の紀行文「甲寅紀行抄」に、この神社の名前が出てくるそうです。
拝殿の天井にある大絵馬「源義経弓流し図」(源平屋島の合戦で、海中に乗り入れた源義経が落とした弓を鞭でかき寄せている場面)は鋸南町指定の有形文化財になっています。

◆観音寺:
聖観世音菩薩を本尊とする真言宗のお寺で、正式には「福聚院観音寺」と言い、安房国札観音霊場の「番外」になっています。
文明3年(1471)、里見義実が開山したと言われ、御本尊は新田義貞から譲り受けたと言われます。
天文4年(1535)に里見義堯が北条氏の要望を受け、川越を攻撃するために軍を送りますが、その時には本営が置かれました。
関東大震災の時は、保田・勝山で約180人の負傷者が出て、観音寺には救護所ができ、補佐医者の救護にあたったそうです。現在、震災記念碑が建っています。現在の堂宇は昭和30年に新築されたものです。

◆汐止橋:
元名川にかかる石積みアーチ構造の石橋です。明治時代になると西洋の技術が導入され、安房地方でも石積みアーチ橋の技術が復旧しました。この橋の特徴は、アーチリングに向かって石が斜めに積まれているところです。技術の高さや形の美しさから日本土木学会から近代土木遺産に設定されています。使われた石は、鋸山から切り出された「房州石」です。

◆靉日荘(あいじつそう):
靉日荘は、東北帝国大学の物理学者だった石原純と女流歌人として有名だった原阿佐緒が保田へ逃避行して来て、大正11年(1922)に建てた洋館の名前です。
アインシュタインの相対性理論の紹介者として有名だった石原純が、原阿佐緒との恋に落ち、その地位も妻子も捨てて二人で保田へ来たのが大正10年秋でした。このスキャンダルは当時一大センセーションを巻き起こしました。二人は、旧保田小学校の裏山に赤い屋根の洋館を建てて住みました。「靉日」の由来は、石原純の歌集「靉日」からとったものです。「靉靉(アイアイ)」という言葉がありますが、これは「雲のさかんなさま」を意味します。

◆西条八十と保田:
軍歌の中でも有名な「同期の桜」、戦後復興期のヒット曲「青い山脈」、村田英雄のヒット曲「王将」などの作詞で知られる西条八十は、保田と縁がありました。
西条八十は明治25年(1892)、東京で生まれました。旧制早稲田中学校に入り、その頃から、房州の海が好きでよく遊びに来ていたようです。
西条八十の晩年の手紙の中に、「私の海の作品は、房州海岸が基調になっています。」「元名という海岸で一人で泳ぎ、その時知り合った一少女が、太平洋戦争前まで、よくビワを送って来てくれたものでした」などとあるそうです。この「一少女」とは、保田の駅前通りの元旅館「加都満(かずま)」の三瓶幸(こう)さんのことだそうです。出会った当時は、出口半三家の娘で、八十に可愛がられ、よく一緒に遊んだそうです。
20歳になった八十は、横須賀の小料理屋で苦労して働いていた幸さんに再開することができましたが、すぐに別れなければなりませんでした。「わが歌と愛の記」という西条八十のエッセイの中に、「別れてから、便りはなかったが、毎年初夏になると、安房名物の南無谷びわを送ってくれた。」「ぼくは汽車の窓から保田の町をながめ、もう60を越したであろうお幸ちゃんが、この町に帰り住んでいるかどうかを考えていた。」とあるそうです。
大正7年(1918)に発表され、八十が詩人として世に出るきっかけになったのが童謡「かなりや」です。その歌詞に出てくる「唄を忘れたかなりや」とは、八十が20歳でお幸さんと再会した時、お幸ちゃんが辛い境遇に置かれていたことへの追憶がこめられていたのかもしれません。

いつもの出発前の体操です!

保田神社へ向かってます。

道沿いに冬桜🌸が咲いていました!

保田神社の説明中!

保田神社の説明案内板

観音寺の説明中!

観音寺の関東大震災記念碑見学

道の駅保田小学校内の「鋸南未来センター」のオブジェを見学

靉日荘(あいじつそう)があった場所の近くで説明を聞きながら、当時の保田の海の眺めを想像中!

汐止橋の看板

汐止橋の説明を聞きながら橋の風景を見学中!

鶴が崎神社の説明中!

鶴が崎神社の大絵馬「源義経弓流し図」の説明看板

西条八十が好きだった元名海岸で西条八十の説明中!

「房州海水浴発祥地」石碑と菱川師宣のお墓があるお寺の説明中!

夏目漱石の海水浴を記念して建てられた「房州海水浴発祥地」の石碑

吉浜(よしはま)のバス停、「吉浜」は鶴が崎と亀ヶ崎の間の地で、鶴亀で吉(よし)の浜から吉浜となった!

ウォーキング最後の新鮮な野菜と柿のプレゼントだ、ウオー!

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