【南房総学】安房国札観音霊場を大正時代の絵葉書で巡る

安房の国札三十四ヶ所観音霊場巡礼は、鎌倉時代、後掘河天皇在位の貞永元年(1232)に悪疫が流行し、飢饉にも襲われるなど、世情が惨憺たる有様だったことに心を痛めた時の高僧たちが相図って、安房国内に奉安する観世音菩薩にご詠歌を奉納し、厨子の帳を開いて巡り、拝んだことに始まるといわれています。
ふらっと通信153号(4月発行)に続き、今回は第七番 天寧寺・第八番 日本寺・第九番 信福寺を巡りたいと思います。
※説明文は、ちば南房総「安房国札観音霊場巡り」より抜粋
各絵葉書の説明分の下のURLをクリックしていただくと、現在の各お寺の情報が見られますので、見比べてみて下さいね!
◆第七番 端雲山天寧寺:天ねい寺 きいてたずねて きて見れば いつもたえせぬ まつ風の音
鋸南町を流れる佐久間川に架かる天寧寺大橋を渡ると現れるのが天寧寺。建長年間(1249~1256)に鎌倉幕府の評定衆であった二階堂隠岐入道行盛が開創。当初は律宗のお寺でしたが、文和元年(1352)足

利尊氏が禅宗に改め、禅師・古先印元大和尚を迎えて臨済禅刹の第一祖としました。本尊は、禅師が中国の天寧寺からもたらした釈迦如来坐像。お寺の名前の起源はここから来るのです。
観音堂の本尊は木像の千手観音菩薩坐像。明歴元年(1655)の火災で堂塔を焼失するも、炎のなかから発見されたことから「焼けずの観音」と称されました。宝永四年(1707)、山上に「正眼閣」という観音堂を構えて千手観音菩薩像を安置。現在観音像は、本堂西内陣に安置されています。
https://bosotown.com/archives/15512

◆第八番 乾坤山日本寺:はるばると のぼればにほんの 山おろし まつのひびきも みのりなるらん
安房と上総を分ける国境に位置し、房州の屋根とも呼ばれる鋸山。その中心部の25㌶がすべて寺の境内という、巨大な寺が日本寺です。寺の起源は今から約1300年前。神亀2年(725)聖武天皇勅願により行基

菩薩が開いた関東最古の勅願所といわれています。良弁僧正、慈覚大師、弘法大師といった名だたる高僧が修行した古道場で、最盛期には7堂12院100坊を持つ大寺だったとのこと。
石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、ここを祈願所として諸堂を造営。仮本堂前にある巨大な蘇鉄は、頼朝の手植えとのこと。高さ31㍍の磨崖仏としては日本最大の大仏は、天明3年(1783)上総桜井(木更津市)の名石工・大野甚五郎が弟子とともに3年かけて刻んだものといわれています。
https://bosotown.com/archives/24137

◆第九番 鹿峰山信福寺:しんぷく寺 のぼりて岸を ながむれば ほたのかわせに たつは白波
保田駅の東、鶴ヶ浜神社前の保田川にかかる橋を渡ると急坂が。両脇に咲く水仙や桜並木の景観を楽しみながら坂を上がると信福寺が姿を現します。信福寺は平安時代の天安年間(857~859)に、慈覚大師が

草創したとされています。戦国時代の弘治元年(1555)に野火の災いに遭い、寛文9年(1669)から同13年にかけて、村の名主である高浜利盛や斉藤昌詮など村民の浄財で観音堂を再興したといわれています。
落成の際には、上総国鮎川(君津市相川)の見性寺から禅僧・本清和尚を招いて中興開山としました。和尚は延宝元年(1673)に京仏師を招いて、如意輪観音菩薩坐像を再興したとのこと。この観音像は周辺の人々から「子授け観音」と呼ばれ、信仰を集めているとのことです。
https://bosotown.com/archives/15570

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