【南房総学】安房国札観音霊場を大正時代の絵葉書で巡る!

安房の国札三十四ヶ所観音霊場巡礼は、鎌倉時代、後掘河天皇在位の貞永元年(1232)に悪疫が流行し、飢饉にも襲われるなど、世情が惨憺たる有様だったことに心を痛めた時の高僧たちが相図って、安房国内に奉安する観世音菩薩にご詠歌を奉納し、厨子の帳を開いて巡り、拝んだことに始まるといわれています。今回は、第二十五番 真野寺・第二十六番 小松寺・第二十七番 住吉寺を巡ります。第一番から掲載順に観音霊場を訪れ、今昔を感じて見てはいかがでしょうか。
※説明文は、ちば南房総「安房国札観音霊場巡り」より抜粋
◆第二十五番 高倉山真野寺:夜もすがら まのの入り江の 松風に おばなぞ見ゆる 秋の夕暮
奈良時代の神亀2年(725)、現在地の当方約1㌔にある高倉山山頂に行基菩薩が開いたとされています。山号の高倉山はここから来ており、真野谷にあったために真野寺となりました。治承3年(1179)、源頼朝は真野寺に源氏再興を祈願して、大願成就。建永元年(1206)にお堂を焼失するも、翌年には北条義時が私財を投じて現在の場所に七堂伽藍を再建し、千手観音像と大黒天像を安置したということです。
本尊の千手観音像は奈良時代、行基菩薩が一木から掘り出したと伝わるもの。行道面をつけ、ご開帳の時も素顔を拝むことができないことから、「覆面千手観音」の異名を持っています。一説によれば、観音像の霊験があらたかで、かえって人を怖れさせて遠ざけてしまい、行道面をつけました。以来、参詣する人が増えたということです。
※現在の高倉山真野寺のURL:https://bosotown.com/archives/1124

高倉山真野寺の大正時代の絵葉書

◆第二十六番 壇特山小松寺:小松寺と きいてたずねて きてみれば ふしぎなるもの おとおうが滝
創建は奈良時代の養老2年(718)。役小角が小庵を建てたのが始まりといわれています。その後平安時代の天長8年(831)、慈覚大師により改築され、山王権現が併せて祀られました。その後火災で焼失するも、小松民部正壽により七堂伽藍は再建され、檀特山医王院小松寺とされました。
当院は天台宗、のちに真言宗に改宗。徳川家康や里見義康らの寄進を受けて、大寺院として修行道場になった歴史もあります。
ご詠歌の「乙王が滝」の滝にはある言い伝えが。乙王とは、小松寺を再建した小松民部正壽の子・千代若丸に仕えた少年。寺の再建落成法要で歌舞を奏している最中に、千代若丸が天狗にさらわれ、平久里郷で変死。その死を嘆いた乙王がこの滝に身を投げたということです。
※現在の壇特山小松寺のURL:https://bosotown.com/archives/756

壇特山小松寺の大正時代の絵葉書

◆第二十七番 中嶋山住吉寺:中嶋へ まいりて沖を ながむれば いつもたえせぬ 波のあらさよ
古くはご詠歌に詠われる「中嶋」と呼ばれる海上の島にあったという住吉寺。元禄の大地震(1703)で海中の土地が隆起し、現在のような陸地になったのだとか。海上にあったころは船に乗って参拝していたとのこと。観音堂の裏側の小高い丘までが昔の海岸線だったといわれ、今でも観音堂の前には船を係留した岩があります。
境内に入ると正面が本堂、右手に庫裏、左手に岩山があり、観音堂へと至る急な石段があります。天保年間(1830~1844)に改築されたお堂に安置された本尊は行基作と伝えられています。境内には土佐興市の記念碑が。紀州印南(和歌山県印南市)出身の土佐興市は文化10年(1813)頃、南朝夷へ鰹節の製法を伝来。そのことから千倉町が「安房節」の発祥となったとのこと。
※現在の中嶋山住吉寺のURL:https://bosotown.com/archives/878

中嶋山住吉寺の大正時代の絵葉書

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