【南房総学】安房国札観音霊場を大正時代の絵葉書で巡る!

安房の国札三十四ヶ所観音霊場巡礼は、鎌倉時代、後掘河天皇在位の貞永元年(1232)に悪疫が流行し、飢饉にも襲われるなど、世情が惨憺たる有様だったことに心を痛めた時の高僧たちが相図って、安房国内に奉安する観世音菩薩にご詠歌を奉納し、厨子の帳を開いて巡り、拝んだことに始まるといわれています。今回は、第三十一番 長福寺・第三十二番 小網寺・第三十三番 観音院を巡ります。第一番から掲載順に観音霊場を訪れ、今昔を感じてみてはいかがでしょうか。
※説明文は、ちば南房総「安房国札観音霊場巡り」より抜粋
◆第三十一番 普門山長福寺:かんのんへ まいりて沖をながむれば 岸うつなみに ふねぞうかぶる
ご詠歌が詠まれた時代、館山観音は城山公園の北にある小丘・北下台(ぼっけだい)にあり、明治から大正にかけて館山公園と呼ばれ、小高い丘から鏡ヶ浦を見下ろす景勝地でした。ここに神亀2年(725)、行基菩薩が自ら刻んだ千手観音菩薩像を安置したのが始まりといわれています。
元和・寛永・元禄の震災を免れた館山観音ですが、関東大震災後ご本尊の観音像を長福寺に移したとのこと。
観音堂裏の永代供養墓の中には「寄子萬霊塔」が。これは明治維新の戊辰戦争の際、箱根山崎の戦いに加わり異郷の地で亡くなった農兵たちの慰霊碑。塔の裏には「鐘の音の落ち葉さみしき夕べかな」の句が詠まれています。
館山観音はその地理的条件から、長い間にわたって、巡礼の最後に巡る結願寺として位置づけられてきました。
※現在の普門山長福寺の房総タウン.comのURL:https://bosotown.com/archives/16572

普門山長福寺の大正時代の絵葉書

◆第三十二番 金剛山小網寺:はるばると のぼりてみれば 小あみ山 かねのひびきに あくるまつかぜ
小網寺は和銅3年(710)の創建で、古くは大莊厳寺と呼ばれました。行基、良弁、弘法、慈覚大師などが来山し、弘安5年(1282)には密教修行の道場として「安房の高野山」といわれるほど栄えたとのことです。
その後荒廃するも、文明年間(1469~1487)に宗秀上人が中興開山して再興。参道の入口には寺号碑があり、これは大正13年に西光寺と合併した記念に建てられたものです。   
本堂の前にかかる梵鐘は、国の重要文化財。弘安9年(1286)に鎌倉の名工である物部国光が製作したものです。伝説によるとこの鐘は、近くの平砂浦海岸に打ち上げられたもので、撞いてみると響きが「小網寺へ」と聞こえたので寄進されたとのことでした。この鐘の音は、ご詠歌にも詠まれています。
※現在の金剛山小網寺の房総タウン.comのURL:https://bosotown.com/archives/736

金剛山小網寺の大正時代の絵葉書

◆第三十三番 杉本山観音院:ふるさとを はるばるここに すぎもとへ わがゆくさきは ちかくなるらん
静かな山里の風情豊かな土地に建つ観音院。行基菩薩が聖観音菩薩像を刻み、安置したのが始まりといわれています。天平6年(734)には、慈覚大師がお堂を造りました。お寺の門前で左右を固めるようにして建つ六地蔵を拝みながら、ゆったりとした雰囲気の境内へ。境内には室町時代の五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠があり、寺の歴史の長さを物語っています。
本尊の聖観世音菩薩像は平安時代の作で、藤原様式の仏像。この観音像にはある伝説があります。
大正時代に堂守・平野三郎左衛門が鎌倉で処罰されようとしたとき、観音様が扉を開けて出ていき、身代わりとなって助けたといわれています。この霊験が伝えられて「身代わり観音」と呼ばれています。
※現在の杉本山観音院の房総タウン.comのURL:https://bosotown.com/archives/643

杉本山観音院の大正時代の絵葉書

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