とみやま地名探訪:久枝

その昔、ヤマトタケルが東北の蝦夷(えみし)を攻めようと三浦半島から房総半島を渡ろうとした時、海神が海を荒れさせたため妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が嵐を抑えようと海に身を捧げ静めたそうです。その姫の櫛がある海岸に流れ着きそこがくしの海岸と呼ばれるようになったというのが久枝の名前のいわれだそうです。皆さんは信じるでしょうか。実は、櫛が流れ着いた話は富津の岩瀬海岸にも、対岸の横須賀の走水にもあり、よく知られている伝説です。
久枝の地名が古文書に出るのは、太閤検地の頃ですから江戸時代近くになります。ヤマトタケルの物語から千年ほど経っており、櫛が流れ着いた話は後に作られたものでしょう。
江戸時代、久枝村には漁民の代表の浜名主と農民の代表である岡名主という二人の名主がいるほど今より漁業が盛んでした。久枝海岸は遠浅で港を作りにくいのですが地引き網などの漁が盛んでした。この漁法は今でも観光用にも行われています。
「くし」という地名は海岸に多く、長く連なった砂丘や丘を指します。久枝海岸の地形もそれに当てはまります。他に久志(鹿児島)・久慈(岩手)等が知られています。
丘を背にした遠浅の海岸からは富士がみえ東京から近いこともあり、海水浴客や臨海学校の民宿地として賑わうようになりました。久枝の文字からは、末久しく若枝のごとく伸びていくという思いが読み取れます。多くの臨海学校で訪れた生徒たちにも忘れがたい海岸だったことでしょう。
追記・前々回の「岩井」の紹介で岩井村が八ヵ村がまとまってできたと書きましたが、正しくは久枝村を入れて九ヵ村の誤りでした。訂正しお詫びいたします。              
(徳永忠雄)

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