5/16「ふらっとフットパス90」を実施しました!

今回のフットパスは、「富山」の名前の由来とされる天富命(アメノトミノミコト)を祀る広尾峰(高崎公園)に登り、六角堂のある寿薬寺や夏目漱石の「草枕」の舞台との説がある岩婦湖などの以下のコースを巡りました。
※八犬伝ゆかりの伏姫籠穴を巡る予定でしたが、晴天で暑かったので、代わりに観音山、農具市が行われていた市部天満神社を訪れました。
●コース:(約7Km+高崎公園)
集合場所(富山岩井運動場駐車場(旧岩井小学校))→竹内八雲神社→岩井神社裏経由→高崎公園駐車場→公園の登山・下山→高崎公園駐車場→寿薬寺→岩婦湖→観音山→市部天満神社→集合場所(12時頃解散)

当日は晴天の暑さにも、高崎公園の急な登りにも負けず、皆様、途中途中の説明を聞き、素敵な景観を楽しまれ、農具市でお買い物をされて、元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しまれました。
最後の新鮮な野菜のお土産(ネギや新玉ねぎや新鮮野菜等)を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料や説明内容などはウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

いつもの出発前の体操中!

高崎公園へ向かう途中!

高崎公園の登り途中で景色を鑑賞(綺麗!)

高崎公園の登り道途中の岩井海岸の景色

高崎公園の登り道の階段(結構キツイね!)

高崎公園の東屋で休憩(景色が綺麗!)

高崎公園の展望案内図

雨宮社の見学中!

雨宮社

雨宮社の説明版

高崎公園の下山中(下りは楽だったね!)

岩婦温泉へ向かう途中1(湧水を味わい中、もっと冷たかったら良かったね!)

岩婦温泉に向かう途中2(良い天気だね!)

岩婦温泉(夏目漱石と正岡子規の説明中!)

観音山へ登山開始!

観音山頂上で休憩中!(景色良いわね!)

市部天満神社の用具祭の見学&買い物

お土産を貰い、解散だ!

【当日配布資料やご説明内容等】
●配布資料:
1.天富命(アメノトミノミコト):
古代の安房について、二つの神話があります。一つは、「高橋氏文」という書物に書かれたもので、ヤマトタケルの話が出てきます。
もう一つは、「古語拾遺」という書物にでてくる忌部(インベ)という氏族の神話です。忌部氏は、朝廷で神祭りを担当していましたが、忌部氏の指導者が天富命です。忌部氏は宮中に神殿を建て、木綿や麻などの織物や鏡・玉などの祭りの道具も自分たちで作りました。玉は出雲国で作り、布は四国の阿波国で作りました。その後、天富命は、布を織るための植物を栽培するのに、よい土地を求めて、阿波国にいた忌部一族を率いて、海路を東に向かい、房総半島の南端に上陸しました。そして、阿波国で栽培していた、木綿や麻などを植えました。
天富命は、移り住んだ所を故郷にちなんで同じ発音の「安房」国と名付け、先祖の「天太玉命(アメノフトダマノミコト)」を祀る神社を建てました。それが、安房神社の始まりであると伝えられています。
令和元年(2019)5月1日に令和天皇が即位されました。そして、11月14日、15日には、天皇が国民の幸せを祈る大嘗祭(だいじょうさい)が行われました。
毎年、新嘗祭(にいなめさい)が11月に行われますが、新天皇が即位したあとに、最初に行う新嘗祭は大嘗祭と言われ、古代から忌部一族が重要な役割を果たしてきました。
<ご参考>新嘗祭と大嘗祭:
毎年11月23日、全国の神社において新嘗祭(にいなめさい)が行われます。「新」は新穀(初穂)、「嘗」は御馳走を意味し、天照大御神(あまてらすおおみかみ)はじめすべての神様に新穀をお供えして、神様の恵みによって新穀を得たことを感謝するお祭りです。
五穀豊穣を祈願した2月17日の祈年祭と相対するお祭りで、この日、宮中では天皇陛下が感謝をこめて新穀を奉るとともに、御自らも召し上がります。
新嘗祭の起源は古く、「古事記」にも天照大御神が新嘗祭を行ったことが記されています。今は新嘗祭から勤労感謝の日へと呼び名は変わっていますが、「収穫を祝い感謝する」という本来の意味は変わってはいません。
一方、新嘗祭のうち新天皇が即位して最初のものを大嘗祭(だいじょうさい)といいます。大嘗祭は、即位の時期が7月までならばその年に、8月以降では翌年に行われます。5月に御世替りを迎えた2019年は、11月14、15日に大嘗祭の中心的となる「大嘗宮の儀」が行われました。
大嘗祭で使われるおコメは、カメの甲を使った「亀占」によって産地が決められます。それを「斎田点定の儀」といい、2019年の大嘗祭に向けては、5月13日に皇居・宮中三殿で古式ゆかしく行われました。東日本(悠紀(ゆき)地方)から栃木県、西日本(主基(すき)地方から京都府が選ばれ、今後、宮内庁と各県の関係者で具体的な場所を決定し、秋の「斎田抜穂の儀」で新穀を収穫、お供えられます。

2.広尾峯(高崎公園):
昭和63年6月6日に「高崎公園遊歩道」が完成しました。公園内には「雨宮(あまみや)社」があり、「タカオカミの神(山上の龍神)」・「クラオカミの神(谷の龍神)」・「天富命」が祀られています。
「タカオカミの神」・「クラオカミの神」は、雨を司る神様です。農耕がほとんどだった当地区では、「雨・水」についての信仰が強かったようです。明治初期まで盛んだった富山の「降雩(ふりう)祭礼(雨乞いの祭り)」に当時に不入斗村(いりやまずむら)(現:高崎地区)は小浦村と一緒に参加していたそうです。

3.富山(トミサン):
富山は、南北二峰から成る双耳峰の山です。北峰には金比羅宮があり、南峰には観音堂があります。北峰が高く、海抜349.5mです。房州の海や遠くの景色が見え、遠見山とも呼ばれます。
その昔、房総の地を開拓した天富命が、この山頂から開拓の指揮をとったとの説があり、また別の説では天富命が埋葬された地とも言われ、天富命にちなんで富山(トミサン)と言われるようになったそうです。

4.天富命を描いた画家:寺崎武男
寺崎武男は、明治16年(1883)に東京の赤坂で生まれ、東京美術学校を卒業後、国の留学生としてイタリァへ渡りました。ベネチアを中心に、イタリアの国内外を巡り、絵画の技法を学び、日本へ紹介しました。そして、海外で高い評価を得て、日本美術史にも大きな影響を与えた人です。

寺崎武男


寺崎は、安房に伝わる神話を芸術家の直感で紐解きながら、黒潮民族による大移動の歴史を巡っていきました。寺崎が描いた絵は、安房神社や布良崎神社、下立松原神社などに奉納されています。布良崎神社に奉納された作品は、鳥居型の額に収められた作品で、天富命が忌部一族を率いて、布良に上陸した様子を描いたものです。また、安房神社の壁画は、天富命が「祖神を偲ぶ」様子を描いたものです。

房総開拓神話「安房渡航の図」(布良崎神社奉納画)

「祖神を偲ぶ天富命の図」

5.夏目漱石と正岡子規:
夏目漱石と正岡子規は、慶応3年(1867)生まれの同い年です。二人は明治17年(1884)、東京大学予備門(後、第一高等中学校と改称)に入学しました。親友としての付き合いは、明治22年の正月にはじまりました。
明治22年8月7日、23歳で第一高等中学校本科2年生だった漱石は、4人の友人とともに、房総旅行をしました。
・8月7日、東京の霊岸島から汽船で保田へ(当時、4、5時間)
・10日間の保田滞在(推定)後、北条・館山へ
(明治18年に開通した「木ノ根隧道」を歩いたと考えられます)
・房総半島を廻り、8月30日に帰宅(現在の新宿区喜久井町)
・9月9日、漢文で書いた紀行文「木屑録」を正岡子規に届ける。
漱石の「木屑録」を一読した子規は、改めて漱石の文才に尊敬の念を抱くとともに、風光明媚な房総の地に魅せられました。そして、愛読書だった「南総里見八犬伝」の地に立ちたいという願望が次第に高まっていきました。
明治24年3月25日、子規は房総へ旅立ちました。この時、子規は25歳で帝国大学の国文科に在籍していました。子規の房総行脚の工程は、東京→船橋→成田→千葉→大多喜→安房小湊→白浜→館山→岩井へと房総丘陵を突っ切り、保田から汽船で帰京するものでした。岩井を歩いたのは、4月1日です。
千葉―北条間の房総本街道は、房総往還ともいい飯の坂から市部を経て、犬掛を通り、上滝田から北条に至る道でした。その道とは別に、市部で本街道から分かれて、高崎から木ノ根峠を越え、丹生から那古へ出て、北条に至る近道である「木ノ根街道」がありました。
木ノ根街道は、主要道路でしたが、屈曲が多くて狭く、危険を伴う悪路でした。明治18年(1885)には、「木ノ根隧道」が完成し、高崎から丹生へぬける「新木ノ根街道」が完成しました。木ノ根隧道は当時、房州第1位の隧道と言われ、高崎村・竹内村では落成式を挙行しました。
<夏目漱石の草枕>:
「草枕から抜粋」=【草山の向こうはすぐ大海原でどどんどんどんと大きな波が人の世をおどかしに来る。余はとうとう夜の明けるまで一睡もせずに、怪しげな蚊帳のうちに辛抱しながら、まるで草双紙にでもありそうな事だと考えた。こんな気持ちになったことは、今夜この那古井へ泊るまでは、かつて無かった。】
草枕という小説は、「那古井」という温泉郷が舞台です。新潮文庫の解説には、「架空の地名ですが、熊本県玉名郡小天(おあま)村の小天温泉がモデル」と書かれています。しかし、「那古井」という地名は、「那古」と「岩井」をつけたような地名であり、保田を連想させる「志保田」という宿の名前も出てきます。
富山町史には、「夏目漱石が明治22年に房総を旅行しているので、『那古井の温泉』とか『鏡が池』とか、『峠の茶屋』とかの描写は岩井地区の様子も取り入れたろう、との見方もある」と書かれています。
また、千葉県高等学校教育研究会国語部会編による「ふさの国文学めぐり」には、「『草枕』の舞台が房州岩井の岩婦温泉にあるとの説は、地元の人は皆知っている。熱心な考証家もいる。」と書かれています。

<八犬伝が好きだった子規>:
子規が明治18年に書いた「筆まか勢・第一編」の中に、「余八犬伝を好む、始めの方には富山の段もっとも気に入りたり、あの筆力といひ、あの風至といひ高尚なる文句を用ゆ、伏姫の零落、すでに一段の雅味あり」とあるそうです。岩井を歩きながら、八犬伝のことを思い出し、富山を眺めたのではないかと思います。
<参考>富山町史、ふるさと富山、他

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