6/12(水)に「ふらっとフットパス101」を実施しました。

今回のフットパスは、那古観音と船形の崖観音を巡る以下のコースで歩き、観音信仰や平安時代の歌人:和泉式部や紫式部について考えました。
●コース (約7.3Km+那古山+崖観音):
集合場所(とみうら元気倶楽部隣の駐車場)→富浦駅発(9時28分下り電車)那古船形駅下車→那古寺中経由→那古山東登山口→那古山→那古観音下→那古船形駅前→崖観音下→崖観音→崖観音下→多田良瀧淵神社→集合場所(11時50分頃解散)
当日は快晴の中、多くの方々にご参加いただきました。有難うございます。_(_^_)_
今回も途中川名修さんのお楽しみクイズを楽しみながら、皆様は元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しまれました。
また、今回も参加者の方がパウンドケーキ等を提供していだだき、皆さん喜んでおりました。
最後のお土産(トウモロコシと胡瓜)とプレゼントの房州枇杷を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料はウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

いつもの出発前の体操中!(富浦駅前)

電車で那古船形へ向かう!

那古山に向かい出発だ!

那古寺で休憩中!、那古地区と那古寺の説明を聞く!

那古山の登り始め!

那古山の最初の階段を登った所で休憩&おやつタイム!

那古山山頂展望台で展望中!、和泉式部の説明を聞く!

紫式部供養塚説明版

紫式部供養塔

紫式部供養塔の前で紫式部の話しを聞く!

那古寺の閼伽井(あかい)の案内板

閼伽井の水を飲み、案内板を読んでいます!

船形の崖観音の入口

崖観音堂に到着!

崖観音にお詣り中!

瀧淵神社

瀧淵神社横で休憩中!、多田良地区の説明を聞く!

後少しで集合場所だ、頑張ろう!

今回のプレゼントの房州枇杷の説明中!

房州枇杷の説明資料版

<フットパス101の配布説明資料>
那古から船形へ歩き、那古山(那古観音)と崖観音に登ります。「ふらっとフットパス101(令和6年6月)」
1.那古地区について:
那古地区は、那古寺の門前町や交通の要衝として栄えたところです。那古寺は昔から房州の名所として知られていました。
江戸時代から明治時代にかけて多くの文人が訪れ、様々な本にも紹介されました。「東海道中膝栗毛」で有名な十返舎一九が書いた「房総道中記」もその一つです。那古寺の門前には当時、飴屋がたくさんならんでいたそうですが、下の絵は、「房総道中記」に書かれている飴屋の様子です。
房州と江戸は、歩くと3泊4日かかりましたが、押送船という船を使うと、那古からは約10時間で江戸へ着くことができたそうです。押送船には、新鮮な魚、房州石材、炭や薪などが積まれ、帰りの船では江戸から酒、醤油、砂糖などを仕入れて来たそうです。

「商いの利生有べし くわんをん(観音)の千の御手程うれる水あめ」
「房総道中記」に書かれている飴屋の様子

2.那古寺:
養老元年(717)、元正天皇が病に伏した折、行基菩薩がこの地を訪れ、海から柳の香木を得て、千手観音菩薩像を彫って平癒を祈願したところ、たちどころに天皇が回復し、その報謝として建てられたのが那古寺の始まりと言われています。
那古寺は、阿波国札34観音霊場の打ち始めの第1番札所であるとともに、坂東33観音霊場で結願寺でもあります。

3.紫式部と和泉式部:
平安時代半ばの貴族たちは、唐風の文化をふまえながらも、日本の風土や生活、日本人の感情にあった文化を生み出していきました。なかでも、漢字を変形させて、日本語の発音をあらわせるように工夫した「かな文字」の使用が、大きな影響を与えました。「かな文字」は、主に女性のあいだで使われ、貴族の生活や感情をこまやかに描いた物語や随筆が、宮廷に仕える女性によって生み出されました。代表的な作品が、紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」などです。
紫式部の「紫式部日記(1010年頃の成立)」とほぼ同じ頃に書かれた作品に「和泉式部日記」があります。和泉式部は、この時代を代表する歌人の1人です。父親は越前守:大江雅致(まさむね)と言い、999年頃までに橘道貴貞と結婚しました。和泉式部の「和泉」は、夫:橘道貴貞の任国であった和泉国に由来します。その後、和泉式部と橘道貴貞の関係は破城し、和泉式部は、冷泉天皇の第3皇子:為尊(ためたか)親王、その死後は弟の教道(あつみち)親王と恋に落ちました。長保5年(1003)4月から翌年1月までの和泉式部と教道親王の恋愛を描いた物語が、「和泉式部日記」です。
教道親王の死後、和泉式部は藤原道長の家臣だった藤原保昌と再婚し、保昌も任国:丹後国へ行ったと言われます。
和泉式部の奔放な恋愛と和歌はさまざまな説話や伝説を生みました。柳田国男は、伝承が全国各地に存在する理由を、「式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなく巡ったからである」と述べています。
※式部省=文官の人事や礼式を司る役所

4.船形地区:
船形地区は、那古山と堂山のかこまれた海に面したところです。船形という地名は、堂山が船をふせた形に似ていることに由来しているそうです。昔から漁業のまちとして発展し、船形の人々は崖観音に漁の安全を祈って暮らしてきました。江戸時代には、一大消費地である江戸へ、干鰯(干したイワシ)を中心とする魚や薪を送る廻船業がさかんになりました。文化5年(1808)には、押送船と呼ばれる江戸と房州を行き来する船は33隻を数えたそうです。
船形漁港の西の端には、安政5年(1858)に船形村の名主:正木貞蔵さんによって築かれた防波堤が残っています。全長85mの石積みで、材料費や人件費で訳1,000両という大工事だったそうです。

5.崖観音:
正式には、船形山大福寺と号します。鏡ケ浦湾頭に聳える断崖の途中に赤い舞台が見える観音堂で、通称、崖観音と呼ばれます。本尊の11面観世音菩薩は、養老元年(717)、行徳菩薩が東国行脚の際、船形山中腹の厳窟に漁民の海上安全と豊漁に祈願をして彫刻、奉安されたものだそうです。背後の崖面に、石の厨子を作って像容を浮き彫りにした魔崖仏です。舞台づくりの観音堂ができたのは、元禄大地震(1703)の復興時の正徳5年(1715)だそうです。
安房国札34観音霊場の第3番札所です。

6.多田良地区:
多田良地区は南房総市富浦町の南端に位置し、館山市船形と境を接しています。
多田良は、「達良」や「多々良」とも書かれ、地名の由来は、多々良公の住居があったという説(和名抄)、多々良荘に起源があるとする説(延命寺文書)、古い製鉄業の蹈鞴(たたら)と関係があるという説などがあります。
大房岬には、奈良時代に役ノ小角が不動明王を祀り、慈覚大師がこの地に堂舎を構え、瀧淵山竜善院と号したといいます。永長元年(1096)に安房の国司として赴任した源親元は竜善院の堂塔を寄進したと伝えられます。
明治33年(1900)、竜善院は移転することになりました。国際関係が厳しくなり、海軍が「大房岬」を敵であるロシア艦と見立てて、射撃の的にした訓練を始めたからです。竜善院は移転して、名称も「瀧淵神社」となりました。

<参考>:南総たてやま発見伝、他

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