富山地域ゆかりの民話の看板を紹介します。

南房総市では、身近な民話を「世間遺産」として永く伝承することで、ふるさと南房総市知っていただき、郷土を愛するきっかけの一つとなるよう、市内各地に伝わる民話を紹介する看板を設置しています。令和3年度に富山地域内に4ヶ所(二部の勝善寺・久枝の蓮台寺・平久里中の天神社・竹内の市営駐車場)に設置されました。今後は、設置した民話の看板を起点に、ゆかりの地を巡るウォーキングなどに活用予定です。

◆勝善寺(しょうぜんじ)(二部)— 「勝善寺の飛び石」
二部の勝善寺は、明治2年(1869)に火災で本堂を焼失、明治19年(1886)に落慶しました。その後明治35年(1902)に向拝を付け加え、後藤義光の彫刻が施されました。明治19年(1886)、本堂参詣席の格天井に房州の絵師川名楽山らが、81枚の雲龍図を描き、本堂は落慶しました。
勝善寺の入口にある看板は、「勝善寺の飛び石」という民話で、岩井の検儀谷原を囲む山の頂に、昔「峰の寺」と呼ばれる寺がありました。しかし、戦国時代に「峰の寺」が火災で全焼したため、老師は山の麓に今の勝善寺を建てましたが、「峰の寺」の石が老師を慕って山から飛んできたそうです。今もその石は勝善寺の裏庭に、小山のように積み上げられています。

◆平群天神社(平久里中)— 「伊予ヶ岳の天狗」
平群天神社は、菅原道真公を主祭神とし、木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)・天照大日孁貴命(あまてらすおおひるめのみこと)・建御名方神(たけみなかたのかみ)を配祀する。
室町時代文和2年(1353)北野天満宮を勧請したのが当社の創祀とされ、天正14年(1586)里見義頼公の命で本殿が改築され、更に文化5年(1808)神照寺法印宥弘により再建された。古くは、平群9ヶ村に鎮守として信仰を集めていたが、明治維新後分村した。明治6年(1873)郷社に列した。
看板は「伊予ヶ岳の天狗」で、昔むかし伊予ヶ岳に天狗が棲んでいて、団扇の神通力を使い、人里に舞い降り悪事を働いていたそうです。そこで村の名主は大団扇を作り、それを天狗が持ち去り得意になって大団扇を扇いでいた天狗が山から落ちたという民話です。

◆蓮台寺(久枝)— 「閻魔大王の首」
久枝の蓮台寺は、永和年間(1375~78)に到阿上人によって開創されたもので、本尊仏は恵心僧都の御作との寺伝がある。寛政8年(1797)に諸堂宇を焼失、同12年に本堂・庫裡ともに完成したが、関東大震災で境内堂宇の全てが潰滅したが、昭和2年に本堂を再建した。
蓮台寺の境内に設置された看板は、「閻魔大王の首」という民話で、昔むかし久枝村の大名主・仲右衛門が、暴風雨の翌朝に海岸線を見回ると流れ着いた大きな仏像の首がありました。仲右衛門は一目で閻魔大王の首と判り、可知山村の名主と話し合い、岩井袋の沖の漁業権と引き換えに首を村の所有とし、名主の家に安置すると大きな恵みがあり村人の暮らしは豊かになりました。後に江戸の仏師によって胴体が作られ一つの形となり、その閻魔大王は蓮台寺に祀られています。

◆市営駐車場(竹内)— 「大太法師(だいだあほうし)」
竹内の市営駐車場(南房総市富山観光駐車場)は、35台駐車可能で富山登山・伏姫籠穴への散策やハイキング等に利用されています。伏姫籠穴までは約1.5km(徒歩約12分)、福満寺までは約0.7km(徒歩約8分)で、富山登山の起点となる駐車場です。 駐車場内に設置された看板は、「大太法師」という民話で、大むかし大太法師という大人が上総の方から安房に向かってのっしのっしと歩いてきたそうです。その時、大太法師は砂で汚れた足を洗おうと岩井の浜辺に立ち寄ったが、眠くなり富山を枕に寝てしまったそうです。眠りから目覚めたころに大勢の村人が足の裏に付いた砂を落としていました。大太法師は足の裏がくすぐったくなり起き上がると、富山の中がへこんで峰が北と南に分かれ、岩井海岸は足の砂で遠浅になったという民話です。

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