12/20(火)のふらっとフットパス85が快晴の中、楽しく行われました!

今回のフットパスは、学制発布150年にちなみ、学校の教師となり退職後は岩井塾を創設した峰信一先生の二部の勝善寺近くの顕彰碑を訪れ、近代の学校制度を振り返りました。
また、宮谷の双体道祖神を訪れ、昔話の世界にもふれ、皆様は快晴の中、ワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しみながら、最後の素敵なお花のお土産を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●ウオーキングコース(約8km)

集合場所(富山学園(南房総市合戸22-1)南側県道沿い「公共駐車場」)→富山学園前・馬場口経由→峰信一顕彰記念碑・勝善寺→馬場口・富山学園前経由→合戸の千歳桜経由→双体道祖神→宮谷集会所経由→集合場所駐車場へ(12時頃解散)

■当日の説明資料:
1.150年前(令和4年11月11日付け毎日新聞のコラムより):
欧米歴訪の岩倉使節団に参加した明治政府首脳が不在だった明治5年(1872)。新時代を形作る政策が次々に打ち出された。学制発布、徴兵告論、国立銀行条例、太陽暦への改暦。多くは西郷隆盛ら留守政府が独自に進めたと言われる。
明治維新の混乱が落ち着き、社会の変化も進んだ。新橋~横浜間の鉄道が開通し、横浜にガス灯が灯った。
2.学制の発布:
明治政府は、明治5年(1872)に学制(学校・教育に関する制度)を発布し、小学校から大学までの学生制度を定めました。特に初等教育が重視され、6歳以上の男女すべてに小学校で教育を受けさせることにしたため、全国各地で小学校がつくられました。学校の建設費や授業料は地元の人々が負担したため、はじめは入学する児童はあまり多くありませんでした。
3.富山地区に出来た小学校:
学制の発布を受け、当時の木更津県は通達を出しましたが、そのころの村で小学校を設置することは、いろいろな面で困難を伴いました。富山地区で小学校が設立された村は、以下のとおりです。
明治6年=井野。
明治7年=久枝、不入斗(高崎)、合戸、二部、吉沢、平久里下、平久里中、荒川、山田。
4.峯信一先生:
峯信一先生は、安政2年(1855)、二部に生まれ、合戸学校が設立された時、合戸学校の先生になりました。明治10年には志を立てて、千葉師範学校へ入学しました。千葉師範学校は、明治7年、千葉県令の柴原和(しばはら やわら)によって設立された学校で、明治10年4月29日に新築に伴う開校式が挙行されました。校舎は千葉の都川に臨み、2階建てで、規模も大きく、県内唯一のモダンな洋館でした。
先生は、千葉師範学校卒業後、箕輪、東明(前身は明治7年設立の二部学校)の2校に勤め、明治18年、北条小学校へ転勤となりました。そして、明治20年から27年まで北条小学校訓導兼校長を務めました。その後も、明治38年まで、下佐久間尋常小学校、勝山高等学校で訓導兼校長として務めました。この間、千葉県小学校教科用図書審査委員や県・郡の教育会役員を務め、文部省や各団体から表彰状や感謝状を十数回にわたりおくられました。
5.岩井塾の創設:
明治38年に公職を退いた峯信一先生は、「岩井塾」を創設しました。創設当初は、個人宅を借用しましたが、その後、市部公会堂を利用した時期もあります。
塾の目的としては、岩井塾規則第1条に「本塾は実学に就かんとする男子に必須なるやや高等の普通教育を施し、兼ねて実業教育の初歩を授けるものとする」と書かれています。
大正11年(1922)に閉鎖されるまで、近隣の村々から数百名の若者が学びました。
昭和8年(1933)、元保田町長の重田嘉一ら門人一同により峯先生の顕彰碑が建てられました。碑文を撰(せん)した小池民次先生は、千葉師範学校の教員で、主に授業法を担当し、千葉県の教育界に多大なる貢献をした先生です。書も小池先生の筆によるものです。以下は、碑文から抜粋したものです。
「先生幼にして穎悟、長じて容貌魁夷威あり猛からず、品性高潔にして、師徳あり」「専心育英に従事すること実に十有八年 門人数百人に及び、教科一郷に洽く」
※穎悟(えいご)―すぐれて賢く、悟りがはやい
 容貌(ようぼう)=目・口・鼻などの形・配置を含めて、顔(=容)の様子(=貌)
 魁夷(かいい)=体が大きく立派なこと
 威(い)あり猛(たけ)からず=威厳があって、しかも内に温かみがあるので荒々しくない。君子の理想的な人柄をいう。
 洽く(あまねく)=広くゆきわたること
※顕彰碑(けんしょうひ)=個人の著名でない功績や善行などを称えて、広く世間に知らしめるために建てられる石碑などのこと。
6.宮谷の双体道祖神:
道祖神は、一般的に「旅の神」や「道の神」と考えられ、村の入口や峠などに祀られているところから「境を守る神」「悪魔を追い払う神」とも言われます。
宮谷の道祖神は、宮谷村と八束村(やつかむら)を結ぶ旧道沿いに建っていましたが、土砂崩れで埋没していたものが、昭和初期に掘り起こされ、現在地に建てられたそうです(いまは一般のお宅の裏側にあります)。
この道祖神は、安房では珍しい「双体」の道祖神です。猿田彦命(サルタヒコノミコト)と天宇受売命(アメノウズメノミコト)が浮き彫りにされています。
※八束村(やつかむら)は、千葉県安房郡(平郡)にかつて存在した村である。現在の南房総市の西部(旧富浦町)に位置している。
※日本での「悪魔」の言葉が使われ始めた時期:
エクソシストのイメージがある「悪魔」という言葉は、元々は仏教由来の言葉だった。
「小悪魔的〇〇」「悪魔くん」「デーモン小暮」「デビルマン」など・・・日本のサブカルチャーにおいて、「悪魔」は深く浸透しています。
「悪魔」と聞くと、キリスト教やエクソシストを連想する人が多いかもしれません。しかし、もともとの悪魔は古代インドのサンスクリット語を漢訳した言葉であり、仏教に由来する言葉です。
日本では平安後期に編纂された「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に、「悪魔」の文字が見えます。そもそも「梁塵秘抄」は、後白河法皇によって編纂されたもので、「今様」という平安末期の遊女(あそび)や傀儡子(くぐつ)などの女芸人によって歌われ広められた流行歌が収められたもの。
この今様は、仏教的な内容を含んでいるものが多いのですが、その中に「不動明王恐ろしや、恐れる姿に剣を持ち、索を下げ、後ろに火焔燃え上るとかやな、前には悪魔寄せじてと降魔(がま)の相」というものがあります。
7.宮谷の道祖神にまつわる昔話:
江戸時代のある年、姥ヶ谷の家に結婚適齢期になった男がいました。その男は、たいそう正直者で、しかも美男だったため、親戚の女が、嫁にもらってくれるように熱心に言い寄りました。
しかし、その女は器量が悪かったので、男は正直にそのことを言って、他の女と結婚する約束があるからと断ってしまいました。
可愛そうなのは親戚の女です。幾日も泣き明かし、家出をしてしまいました。
その後、何事もなく歳月が流れていきましたが、40年を過ぎた頃のことです。
信濃国に住む貞隼(ていじゅん)という尼さんが、姥ヶ谷の男のところへやって来ました。
男はその尼を見て、驚きました。むかし結婚を断った女だったからです。
びっくりしましたが、長旅で疲れている様子なので、その夜は自分の家に泊まるように勧め、女房を紹介しました。
尼は、男の女房を一目見るなり、「何だ、私とちっとも変わらないような顔の嫁さんを貰ったじゃないですか!、でも、せっかく夫婦になったんだから一生仲良く暮らせるように、私が道祖神を建ててあげます。」と言い、「双体」の道祖神を建ててくれたそうです。
8.猿田彦命と天宇受売命にまつわる神話:
宮谷の双体道祖神に彫られている猿田彦命(サルタヒコノミコト)天宇受売命(アメノウズメノミコト)は、日本の神話に出てくる神様です。
天宇受売命は、天岩戸(あまのいわと)神話に出てきます。天照大御神が弟の須佐之男命(スサノウノミコト)の乱暴狼藉に恐れを抱き、天岩戸とよばれる洞窟に身を隠してしまった時、天宇受売命が、天岩戸の前で艶めかしい姿で踊り、天照大御神が岩戸から出てきたという話です。
天宇受売命が踊った踊りは、神社で行われる神楽の始まりとされ、また、このエピソードから天宇受売命は芸能の神様として芸人や俳優など芸術関係者から篤い信仰を集めています。

天宇受売命と猿田彦命(「皇国開闢由來記」より)

猿田彦命は、もともと天上の世界である高天原(たかまがはら)から地上に続く道の要衝にいました。そして、天照大御神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高天原から地上に降りてくる時、道案内をした神様です。道案内をつとめた神様なので、道祖神として祀られることが多いようです。また交通安全の御神徳があるとして信仰されています。
猿田彦命は、身長が約210cmで、鼻の高さが約170cmあるそうです。その鼻の長さから、天狗の原型とも考えられています。
古事記や日本書紀によると、天宇受売命と猿田彦命が結婚したとの記述はありませんが、夫婦として信仰されていたそうです。
<参考>生稲謹爾(きんじ)氏著書「南房総市の昔ばなし」、「日本の神話」、他

出発前のいつもの体操中!

本日のウオーキング工程の説明中!

勝善寺近くの峯先生の顕彰碑で説明を聞く!(後ろの家は峯先生が住んでいた場所)

二部の勝善寺

勝善寺の綺麗に紅葉したもみじ

宮谷の双体道祖神へ向かう途中1(富山こども園のこども達が手を振って、挨拶してくれました!)

宮谷の双体道祖神へ向かう途中2(あと少しだ!)

宮谷の双体道祖神の説明看板

一般のお宅の裏にある宮谷の双体道祖神を順番に見学!

宮谷の双体道祖神

宮谷の双体道祖神の説明とまつわる昔話を聞く!

集合場所へ戻る途中1

集合場所へ戻る途中2(富士山の絶景が見れた!)

集合場所へ戻る途中3(あと少しだ!)

ウオーキング終了、お土産はお花だ!、綺麗!

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