3/28「ふらっとフットパス88」を実施しました!

今回のフットパスは、平群の花火の発案&初代作成者のお墓、安房国88ヶ所の39番札所:龍泉寺や古民家「ろくすけ」、蛇喰宮崎の地を訪ね、春の花が咲き誇る水野さん宅の花畑を見学しました。
●コース(約8Km弱):
集合場所(平群「天神社」近くの空き地)→龍泉寺→釜戸原橋→古民家ろくすけ→蛇喰集会所→水野家花畑→集合場所(11時45分頃解散)
今回は千葉の方から子供連れのご家族が参加してくれました、良かった!
当日は曇りから小雨→晴れ間が覗く生憎の天気の中、道中で綺麗な桜🌸や桃の花等を観ながら、平群コミセン前で平群の花火の歴史説明を聞き、平群の花火の発案&初代作成者のお墓→龍泉寺を訪れました。
龍泉寺ではご住職にお寺の歴史とご本尊の説明をしていただきました。
その後、古民家「ろくすけ」へ向かう途中では花火の打ち上げ場所等を見学しました。
古民家「ろくすけ」では、古民家の歴史と地域活性化の為の古民家活用内容をお聞きし、オーナーの方からご厚意のコヒー、お茶とお菓子をいただきました。
お蔭様で元気を盛り返し、雨上がりの中、その後の蛇喰集会所→水野家花畑→集合場所へと元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しみました。
最後のお饅頭等のお土産を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料や説明内容はウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

いつもの出発前の体操中!

平久里川の川沿いのソメイヨシノ🌸が綺麗に咲いていました!

平群コミセン前で平群の花火の歴史などの説明中!

平群の花火の発案&初代作成者のお墓へ向かう途中!

平群の花火の発案&初代作成者のお墓(上部半分が折れている)

平群の花火の発案&初代作成者のお墓の説明を聞きながら見学中!(こんな所にお墓があるんだ!)

龍泉寺に到着!

ご住職に龍泉寺の歴史と本尊についてお話を聞き、賽銭をあげる!

古民家「ろくすけ」へ向かう途中で平群花火の打ち上げ場所を観る!

橋の草鞋等の飾り

橋の草鞋等の飾りの説明中!

古民家「ろくすけ」へ向かう途中!(小雨だけどさくら🌸が綺麗!)

大澤橋の花火の飾り(花火玉の大きさを示す飾りもある)

大澤橋の花火の飾りの説明中!

古民家「ろくすけ」へ向かう途中!

古民家「ろくすけ」に到着!

母屋でコーヒー、お茶、お菓子を頂く、美味しい!

母屋でコーヒー、お茶、お菓子を頂く、美味しい!(小部屋)

オーナー様から古民家「ろくすけ」の歴史と地域活性化のための古民家活用の説明を聞く!

蛇喰宮崎へ向かう途中!

蛇喰宮崎集会所で「蛇喰」の歴史と昔ばなしを聞く!

平群山菜園へ向かう途中!(ちょっと疲れたかな?)

平群山菜園に到着!

オーナー様から山菜の説明を聞く!

集合場所へ戻る途中!(桜🌸が綺麗!)

お土産を貰う!(途中で雨が止んで良かった!)

お土産は饅頭とお菓子詰め合わせだ!

【フットパス88の配布資料内容とそれ以外の説明内容】
<配布資料以外の説明内容>
1.平群の花火 (へぐりのはなび):

平群の花火は、毎年十月二十四日に平久里中地区に鎮座する天神社の祭礼で打ち上げられます。天神社は、文和二年(一三五三)に勧請されたと伝え、県指定の「紙本著色天神縁起絵巻」を所蔵する古社です。
 花火の由来は、約二百年前から打ち上げられているといいます。もともと峰火(のろしび)だったのが、次第に華麗さを競 う流星花火(りゅうせいはなび)になりました。
 花火には、「伝承もの」と呼ばれる明治から大正にかけて全盛した、「柳(やなぎ)」「孔雀(くじゃく)」「アカボシ」「黄煙(きえん)」「紅煙(こうえん)」があります。現在は、「段開(だんびら)き」の「五段」「十段」「十五段」「三十五段」、「袋物」の「提灯(ちょうちん)」「柳に鞠(やなぎにまり)」「雷後の月((らいごのつき)」、「星物(ほしもの)」の「総釣(そうづり)」「連星(れんせい)」「空中玉火(くうちゅうたまぴ)」「花か嵐か(はなかあらしか)」、「一発もの」の「柳」「白の満天」、「光物(ひかりもの)」の「宇治川の蛍(じがわのほたる)」など色鮮やかな花火が打ち上げられます。
 花火を打ち上げるには、大木を用いた巨大な花火筒(はなびつつ)が造られ、何十人もの手で行われます。
「房総の祭りと技」 千葉県文化財保護協会発行 平成六年四月二十八日

大木を用いた巨大な花火筒(はなびつつ)の花火台

天神社にあった昔の打ち上げ花火の筒

<フットパス88の配布資料内容>:
1.龍泉寺:

四国八十八か所は、有名ですが、安房国にも八十八か所があります。龍泉寺は安房国八十八か所の39番札所です。御詠歌は、
<野をも過ぎ 里をも行きて中村の 寺へまいりて うける十らく>です。
安房国八十八か所霊場の起こりは、四国の霊場を巡拝することのできない人のために、天正10年(1582)に頼長上人という高層が安房国へ移されたことによるそうです。
御開帳は50年毎に行われ、昭和9年(1934)の御開帳は、弘法大師が高野山に入定されてから1100年の大遠忌にあたりました。
前回の御開帳は、昭和59年(1984)の10月1日から31日まで行われました。次の御開帳は、2034年の予定です。
龍泉寺は、正式には「龍光山龍泉寺」といい、本尊は不動明王(約600年前の作)をお祀りする真言宗智山派のお寺です。平群村誌によると、二世法印の頼宥(らいゆう)の遷化(せんげ:亡くなること)が延宝元年(1673)であり、境内にある八幡社の創建が延宝6年であるところから、開山は、1600年代と考えられるそうです。

2.古民家「ろくすけ」:
かやぶき屋根の古民家「ろくすけ(屋号)」は、昭和30年代まで安房地域で多く見られた母屋と炊事場を分けた「分棟型民家」の面影を残しています。
言い伝えによると建設年代は天保年間(1830~1843)と言われ、100程前にこの地に移築されたと言われています。
NPO千葉自然学校が、平成16年(2004)に家主から借り受け、自然や田舎体験をする場所として整備してきました。平成26年(2014)から都市農村交流拠点として、地域住民と連携して、子どもたちのキャンプや、「平群を歩く」、「郷土料理塾」等のツーリズムを開催したり、都市部のシニアによる里山整備や耕作放棄地を使った栽培活動などを行っています。
令和1年より農家民泊スタート。都市と田舎の交流地点として、歴史ある地域の文化を次世代へ継承していく場として、多くの方にご利用いただくため、日々整備を続けています。

母屋

母屋の室内(囲炉裏のある部屋(大広間)

かやぶき屋根の修理作業

3.「ろくすけ」の持ち主だった若林清さん:
明治37年(1904)に農家の子として生まれました。日本美術家連盟会員等の画業の経験があり、富山町文化財保護審議委員会議長を務めたことがあります。若林氏は、「民話百選」「続民話百選」「南総の昔ばなし」など民話に関する著書を出版されました。
「南総の昔ばなし」の序文を書かれた当時の千葉県立安房博物館館長:山岡俊明氏は、序文の中で次のように書いています。
「話を伝えてくれる人をほりおこし、昔ばなしを思い出させながら記録をとられるには、多くのご苦労があったのではないかと思います。~略~ 若林さんの筆になる民話を読みますと、まるで私たちがその時代の人になったみたいに、昔の家や山の姿が全部あらわれて、鮮やかに私たちに語りかけてきます。これは、この民話がけっして作りばなしではなく、私たちの生活に密着しているからでありましょう。~略~ 長く語り伝えられてきた民話を発掘し、記録にとどめて出版されますことに、かぎりない賛辞をおくりたいと思います。」

4.白蛇伝説が伝わる蛇喰(じゃばみ)地区:
蛇喰地区の小高い山の頂に、昔、城があったと言われています。この城は戦国大名の里見に関係があると思われますが、大変美しいお姫様がいたそうです。この姫様の噂は、近くだけではなく遠く上総の方にまで伝わり、美しい姫を奪おうとするものもいたそうです。
ある秋祭りの日、お姫様は氏神様にお参りをしましたが、その帰り道に一匹の白蛇が殺されているのを見つけました。お姫様は、白蛇を哀れに思われ、家臣に命じて蛇塚を建てさせ、お坊さんを呼んでねんごろに供養しました。このようなお姫様の慈悲深い気持ちが通じたのか、この地区のさまざまな蛇がお姫様を慕って集まり、お姫様の健康を守ったと伝えられています。
この蛇喰集落では、昔から蛇に噛まれたという話を聞かないそうです。この集落の人たちは白蛇の霊に永く守られているのでしょうか?

「富山町史、ふるさと富山、その他」から

<ご参考>:
日本各地に「蛇喰」という地名は存在していますが、その多くは、地すべり・土砂くずれ・洪水などの自然災害を大蛇の仕業だと、昔の人が信じていたことに由来しているようです。

<蛇喰(じゃばみ)城(南房総市平久里字蛇喰)>:
県道88号線に、国民保険病院があり、「病院前」というバス停がある。その辺りから南側の山塊に入り込んでいったあたりが蛇喰城のあったところと言われ、地元では城山と呼んでいる。
病院の前の道から南側に入り込んでいくとすぐに龍泉寺という寺院が高台に見えてくる。その上には八幡神社もある。この神社と寺院の存在は、城に関連したものだと思われる。

城山は八幡神社のある尾根の南側の山頂部分である。下の平久里川からの比高は50mほどあるが、山上には数件の民家があり、上まで車で上がっていくことも可能である。 
城山は民家のすぐ裏山になっている。特にこれといった遺構もないという情報を得ていたので、わざわざ民家の裏山に進入するのはやめておいた。しかし、そこはある程度まとまった平場になっているようである。
城の西側の斜面は非常に急峻で、いかにも城塁と呼ぶのにふさわしい。ただし、城のある山の周辺は水田や畑となってかなりの部分が耕作地化されているので、後世の改変も多いと思われる。これといった遺構が見られないのには、そうした改変が多く加わっているからであるとも思われる。
それ以上に、城そのものがかなり古い時代のものなのであろう。この地域古い山城では、山上にそれらしい遺構を見ることができないものがいくらでもある。遺構がなかったからといって城ではないとも言い切れない。城があったという伝承があり、「城山」という地名が残っていることが重要である。遺構はなくても、ここが城址であることは間違いないものと思われる。
『房総の古城址めぐり』によると、里見義実が築いた城であるという。そして里見義実に仕えた高柴氏の子孫の墓所が近くにあるという。里見義実の時代に、彼がこの辺りに城を築くようなことがあったかどうかは別として、要するにこのことは、この城が古い時代のものであることを示しているものと思われる。城は確かに古態のものであり、そういう意味では伝承と一致するといえる。 
また『城郭体系』では、永禄7年の国府台合戦に参加した安西伊予守実兄の城であったのではないか、としている。このことが何を根拠としているのかが不明だが、永禄7年頃の、安西氏の居城であったとするなら、もう少し人工的な構造物をみることができてもよさそうな気がする。
※*ラフの作成に際しては『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』の図を参考にしたものです。

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