【南房総学】安房国札観音霊場を大正時代の絵葉書で巡る

安房の国札三十四ヶ所観音霊場巡礼は、鎌倉時代、後掘河天皇在位の貞永元年(1232)に悪疫が流行し、飢饉にも襲われるなど、世情が惨憺たる有様だったことに心を痛めた時の高僧たちが相図って、安房国内に奉安する観世音菩薩にご詠歌を奉納し、厨子の帳を開いて巡り、拝んだことに始まるといわれています。
 ふらっと通信152号に続き、今回は、第四番 真勝寺・第五番 興禅寺・第六番 長谷寺を巡りたいと思います。
※説明文は、ちば南房総「安房国札観音霊場巡り」より抜粋  

◆第四番:岩峰山(いわぶさん)真勝寺 /はるばると のぼりて見れば 真しょう寺 じゅんれいどうも たのもしきかな
奈良時代中期(710~794)、聖武天皇が国分寺建立の詔勅を発したとき、厄年だった光明皇后がご懐妊に。安産祈願のため二体の如意輪観世音像を行基菩薩が彫り、一体を帯解寺(奈良県今市町)の本尊とし、もう一体を難産に苦しむ女人を救済するために立田川に流しました。ある日、村人が海中に光を発見。村人・青木真勝が船を沖に漕ぎ出して海藻から引き揚げてみると、行基が立田川に流した如意輪観世音像でした。観音像は岩峰山に奉安されました。
全国行脚していた行基からこの話を伝え聞いた聖武天皇はいたく感銘され、岩峰山真勝寺の勅号を下されたといわれています。如意輪観音は6つの手を持ち、安産・火除・厄除けの観音様として信仰を集めています。
所在地:千葉県南房総市富浦町青木173

◆第五番:海恵山興禅寺 /寺を見て 今はさかりの こうぜん寺 庭のくさきも さかりなるもの
貞和元年(1345)夢窓国師が開山した臨済宗の禅寺である興禅寺。境内には里見義弘の夫人・智光院殿の供養塔があります。法名・智光院殿である青岳尼(しょうがくに)は、波乱の人生を送った女性。青岳尼は国府台合戦(市川市)で討ち死にした小弓公足利義明の娘で、里見義堯を頼って房州に落ち延びた遺児のなかに彼女もいたという説があります。その後、鎌倉で尼となり、鎌倉尼五山筆頭の太平寺の住職となりました。
弘治2年(1556)里見義弘は宿敵北条氏に対し三浦半島の城ヶ島を攻略し、なおも鎌倉まで進攻。そのとき太平寺で、若く美しい青岳尼に出合い、彼女を連れ去ったのです。かくして青岳尼は還俗して義弘の正室になりました。
所在地:千葉県南房総市富浦町原岡275

◆第六番:海光山長谷寺 /長谷寺へ のぼりて沖を ながむれば にはまの浦に たつは白波
大黒山の麓に位置する大隆山法福寺の急階段を登ると、山の中腹に長谷寺があります。由緒によると聖武天皇が病気平癒を祈願して奈良長谷寺に十一面観音を祀り、鎌倉長谷寺にも行基菩薩が二体の観音像を彫り安置。そのうち一体は足利尊氏が武運長久祈願のために帰依し、当地にお堂を建て安置しました。その後、意思を継いだ四代将軍の足利義持が僧の木鐸とともに応永13年(1406)に開創したとされています。
しかし、江戸時代の元禄16年(1703)に野島崎沖を震源とする元禄大地震による津波で、堂塔など全て流失。その後も火災で焼失や暴風雨で倒壊するなど波乱に満ちたこのお堂の歴史は、自然環境の厳しい海際に建つお堂の宿命でもあります。
所在地: 千葉県安房郡鋸南町勝山409

コメントを残す