4/28「ふらっとフットパス89」を実施しました!

今回は徳川家康の先祖と同じ先祖を持つと言われる酒井家:勝山藩ゆかりの地とお寺を巡り、水戸黄門が勝山へやって来た足跡や勝山の大黒山に以前、遊園地や水族館が有ったことの説明なども行う以下のコースを巡りました。
●コース(約8Km):
集合場所(富山岩井運動場(旧岩井小学校))→岩井駅発→安房勝山駅下車→勝山遊園地跡地→勝山漁港経由→勝山陣屋址→加知山神社→勝山学園下経由→長林寺→検儀谷経由→市部天満神社→集合場所(11時50分頃解散)
今回は令和5年4月26日(水)が雨天の為、予備日である4月28日(金)のウォーキングとなり、ご参加の方々が10数名となりましたが、4/28は晴天となり、元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しみました。
最後の新鮮な野菜のお土産を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料や説明内容などはウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

今回は電車の時間があるので、いつもの出発前の体操はせず、コース説明を聞いて出発だ!

電車で岩井駅から安房勝山駅に移動中!

大黒山のへ向かう途中、さあ!、勝山藩の場所に入るぞ!

勝山藩でも重要な山であった大黒山に以前、遊園地や水族館が有った等説明中!

以前、水族館が有った場所

勝山港から見た沖合浮島の風景!

水戸光圀が勝山に来て、紀行文「甲寅(こういん)紀行抄」に浮島の事を記載した事など説明中!

勝山藩陣屋跡地の説明中!

「勝山藩陣屋跡」の説明版

妙典寺の「勝山藩義士の碑」の説明中!

妙典寺の「勝山藩義士の碑」の説明版

妙典寺の「勝山藩義士の碑」

長林時へ向かう途中1(勝山小の遠足の子供達とすれ違い、挨拶しました!)

長林時へ向かう途中2(天気が良く、暑いね!)

長林時へ向かう途中3(休憩中で後楽園の名前の由来の説明中!)

長林時へ向かう途中4(坂道を登って来たので日陰で休憩だ!)

長林寺近くの田子台遺跡の説明板

長林寺の説明中!(幼くして亡くなった忠朝の子:紋之裕の墓がある)

台風15号での被害修復後の長林寺

田子台遺跡近くの隠れキリシタンの墓(酒井忠朝がキリシタンだったのではないかという説がある)

集合場所へ戻る途中1(そよ風が涼しい)

集合場所へ戻る途中2(後少しだ!)

観音山(酒井の葬儀を福聚院で行い観音山で火葬にした説明中!)

酒井忠国が建立と言われている市部天満神社

天満神社の歴史案内版(酒井忠国が建立と言われている)

お土産は春キャベツとサヤエンドウだ!

お土産を貰ったら解散だ!

【フットパス89の配布資料等】
徳川家康と同じ先祖を持つと言われる酒井家:勝山藩ゆかりの地を巡ります。
1.徳川家(松平家)と酒井家は同じ先祖の家:
江戸時代に各地で活躍する酒井家の先祖は、三河国松平郷にいた松平親氏(ちかうじ)(徳川家康の8代前の先祖)と三河国碧海郡(あおみぐん)酒井村の娘との間に生まれた酒井広親(ひろちか)だと言われます。つまり、酒井家と松平家(家康の時、徳川を名乗る)は松平親氏という共通の先祖をもつ家で、戦国時代から両家は手を組み、生き抜いてきました。
酒井家は、広親の子の代で、「左衛門尉(さえもんのじょう酒井家」と「雅楽頭(うたのかみ)酒井家」に大きく分かれました。左衛門尉酒井家の血筋からは、徳川家康の側近で徳川四天王のリーダーである酒井忠次(2023NHK大河ドラマ「どうする家康」では大森南朋が演じています)が出ました。
雅楽頭酒井家の血筋からは、松平広忠(家康の父)に仕え、家康の母になる於大(おだい)を広忠の嫁に迎える時に尽力した酒井正親(まさちか)や正親の孫で3代将軍徳川家光の時に老中や大老を務めた酒井忠勝(ただかつ)が出ました。家光が、「我が右手は酒井忠勝、左手は松平信綱」と語ったというエピソードがあります。

2.酒井家による勝山藩の成立:
酒井忠勝の長男:酒井忠朝(ただとも)は、幕府の中でエリートコースを歩み、父親と同じように老中などの重要な職につくだろうと考えられていました。
しかし、慶安2年(1649)、父親の忠勝から親子の縁を切られました。親子の縁を切られた理由ははっきり分かりませんが、忠朝がキリシタンだったのではないかという説があります。
忠朝は明暦3年(1657)、妹の夫:堀田正盛の領地だった安房国の平郡へ向かいました。平郡で最初に身をおいたのは、下佐久間村の田子だったようです。田子の長林寺には、この地で幼くして亡くなった忠朝の子:紋之裕の墓があり、忠朝の役職名だった「備後守」に通じる「備後の芝」という地名が近くにあります。その後、市部村に住み、寛文2年(1662)に44歳で亡くなりました。
酒井忠勝は小浜藩主の座を忠朝の弟:忠直に継がせました。藩主となった忠直は、市部村にいた兄忠朝の子:忠国を不憫に思い、寛文8年(1668)堀田の領地から小浜藩の領地になっていた勝山や岩井周辺の領地を小浜藩から切り離して勝山藩とし、忠国を初代藩主にしました。
【勝山藩の陣屋跡】
勝山藩は、1万石(後に5千石加増)なので、立派な城ではなく陣屋を構えました。場所は、勝山港通り商店街の通りの南側です。現在の通りは陣屋の堀でした。陣屋を囲んで、城町、城ノ前、内宿といった字名が残っていて、陣屋で使われた井戸や屋敷稲荷、屋敷観音も残っています。

<ご参考>:
勝山陣屋は勝山城の東側山麓にあった。東側に延びる尾根の間の谷戸部を利用した陣屋であった。「勝山陣屋絵図」を参考にして想像図を描いてみると下の図のようになる。周囲に水堀を巡らせ、入口には枡形門が置かれていたようであるが、現在では遺構は見られなくなってしまっている。
<ご参考>:
歴代藩主の多くが、大番頭や大坂加番、奏者番などを歴任した。
※奏者番:
奏者番(そうじゃばん/そうしゃばん)は江戸幕府および藩の役職の一つである。城中における武家の礼式を管理する。
具体的には大名・旗本が将軍に拝謁する際、あるいは在国の大名が献上品を使者に持たせて江戸城に派遣した場合に、その氏名と献上品の内容を確認して将軍に報告し、将軍が下賜を行う際にその伝達にあたった。更に大名の転封などの重大な決定や大名家の不幸に際して上使として派遣されたり、徳川将軍家及び御三家の法要において、将軍が参列できない場合の代参を行うこともあった。また、将軍の御前で元服を行う大名・世子に礼儀作法を教える役目も担った。
<酒井家>
1万石→1万5000石→1万2000石。(譜代)
忠国(ただくに)従五位下。大和守。
忠胤(ただたね)従五位下。備前守。
忠篤(ただあつ)従五位下。越前守。
忠大(ただもと)従五位下。大和守。
忠鄰(ただちか)従五位下。越前守。
忠和(ただより)従五位下。大和守。
忠嗣(ただつぐ)従五位下。越前守。

【忠朝の屋敷の門】
忠朝が亡くなった時、市部村の観音山で火葬し、福聚院(ふくじゅいん)が葬式を行ったと言われます。福聚院の山門は、忠朝が市部で亡くなるまで住んでいた屋敷の門で、酒井家から福聚院に寄進されたものです。また、山門の前には、勝山藩主が参拝に来た時、駕籠を置くための駕籠置き場が残っています。

【忠国が建立した神社】
市部の天満神社は、初代勝山藩主の酒井忠国が、叔母(父:忠朝の妹)の安産祈願のため寛文12年(1672)9月25日に建立したそうです。

3.水戸黄門(徳川光圀)が勝山へやって来た:
葵の紋所の印籠を取り出し、悪人をこらしめながら諸国を漫遊する水戸黄門の話はテレビなどで作り出されたお話ですが、史実として、徳川光圀は、延宝2年(1674)、水戸から鎌倉へ行く途中、勝山へやって来ました。光圀はこの時の紀行文「甲寅(こういん)紀行抄」によると、4月22日に水戸を出発し、29日には湊村(富津市上総湊)で船に乗り換え、勝山に向かいました。徳川御三家の藩主が勝山藩へ立ち寄るという報せは、勝山藩にも届いていたようで光圀の船が鋸山鐘崎を廻ると勝山藩からの出迎えの船14、15艘が飾りを立てて待っていたそうです。
光圀は、「勝山の沖合に浮島という島がある。岩石がごつごつしてとても奇抜で優れた景色だ。大きな洞穴が2つ。その穴は向こうへ通り抜けている」と書いています。
光圀が見た時の浮島は、本島と大ボッケ島はつながっていて、そこに穴があったようです。それで、現在見られる大ボッケの穴と合わせて「洞穴が2つ」と書いたと思われます。そして、「元禄大地震(1703)」で2つの島の間は崩れ、穴が一つ無くなったと考えられます。
光圀は、大黒山の麓に住んでいた石井弥五兵衛という浪人の家に立ち寄りました。詩文が得意だった弥五兵衛は、この時の縁で光圀に見いだされ、江戸小石川にあった水戸藩の彰考館に出仕し、「大日本史」の編集事業に携わることになりました。光圀は、この編集事業のために、各地から有能な人材を集めていたのです。諸国漫遊のお話の「助さん」、「各さん」もこの事業に携わった「佐々木介三郎」、「安積覚兵衛」がモデルになっています。
徳川光圀は、水戸藩の2代目の藩主です。水戸藩の初代藩主:徳川頼房は、家康と側室のお万の方の子です。お万の方は、勝浦城主:正木頼忠の子と言われています。正木氏は、源頼朝が安房へ逃げる時、頼朝を助けた三浦氏の血を引く一族です。

浮島古地図

現在の浮島の地図

現在の浮島

【浮島伝説】
東国平定をなしとげたヤマトタケルの死後、父の景行天皇は、同じ旅路をたどって、勝山の浮島に来ました。浮島がとても気に入った天皇は、ここにしばらく滞在したと言います。この時、家来のイワカムツカリノミコトが、大きな白いハマグリやカツオを料理して天皇に差し上げたところ、たいそう喜ばれたそうです。
ムツカリノミコトは、以来、料理の神様として祀られました。

<以前に有った勝山観光マップ>:

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