【南房総学】安房国札観音霊場を大正時代の絵葉書で巡る(第4回)!

安房の国札三十四ヶ所観音霊場巡礼は、鎌倉時代、後掘河天皇在位の貞永元年(1232)に悪疫が流行し、飢饉にも襲われるなど、世情が惨憺たる有様だったことに心を痛めた時の高僧たちが相図って、安房国内に奉安する観世音菩薩にご詠歌を奉納し、厨子の帳を開いて巡り、拝んだことに始まるといわれています。
ふらっと通信154号に続き、第十番 往生寺・第十一番 金銅寺・第十二番 福満寺を巡りたいと思います。
※説明文は、ちば南房総「安房国札観音霊場巡り」より抜粋
●第十番 金清山往生寺:おうじょう寺 のぼりて見れば ちしゅのはな いつもたえせぬ のりのこえかな
寛仁元年(1017)、恵心僧都が創建。本尊である聖観音坐像も恵心僧都の作といわれています。また一説では運慶作とも伝わっています。また、不動明王坐像と弘法大師像が安置され、享保15年(1730)奉納のご詠歌額や明治4年に安房在住の歌人たちが奉納した歌額が残されている。
通称・観音山と呼ばれている裏山の頂上付近には数百坪の平地があり、かつてはそこに観音堂がありました。現在の観音堂は明治2年(1869)山上から移築したものです。山上には歴代住職の墓地と、宝暦12年(1762)に建てられた「光明真言三千万編」の記念供養塔が残っています。
往生寺は徳川時代には30石の朱印地を賜った有力な寺院でした。ご詠歌の「いつも絶えせぬ法(のり・読経)の声かな」からは、当時の繁栄ぶりを窺うことができます。
※現在の金清山往生寺(おうじょうじ):https://bosotown.com/archives/15181

●第十一番 奇雲山金銅寺:はるばると のぼりて見れば こんどう寺 はぎのはしらは 五六千本
和銅2年(709)に現在地より北方にある小萩坂西之野に、行基菩薩が観音菩薩像を自ら刻んで七間四面の精藍を創建した当寺。その後、長い年月の間に荒廃し草原となって埋もれてしまったといいます。
そして弘安3年(1280)小萩坂から一筋の光明が輝き、それが白雲となって立ち昇ったのを近くに住む僧・玄助が見つけました。立ち昇った白雲と光に導かれ、玄助が草むらをかき分けたところ、旧堂跡の草の中から金銅の聖観音像一体が現れたのでした。そこで玄助は、萩を束ねて柱を作り、茅で屋根を葺いて観音像を安置したとされています。
ご詠歌にある「はぎのはしらは五六千本」とはこのことを詠ったもの、奇雲が立ち込めたところに金銅仏が現れたことから、奇雲山金銅寺と号されました。
※現在の奇雲山金銅寺:https://bosotown.com/archives/21266

●第十二番 富山福満寺:おもくとも かるくのぼれや 富山へ 四方じょうどを 見るもごくらく
富山は南と北に二つの峯を持つ美しい双耳峰。南の観音峰と北の金毘羅峰の頂上にはそれぞれお堂があります。
南峰にある観音堂は、聖武天皇の勅願により行基菩薩が天平3年(731)の正月に作事を始め、6月に工事を終えたとされています。自然環境の厳しい山頂は雨風や雷が激しく、焼失や倒壊、再建を繰り返してきた歴史があります。
麓には福萬寺の本堂があります。当初は、現在の本堂から登る表参道の一合目と二合目の間の諏訪の台、地籍でいう大房というところにありました。その後焼失し、元治元年(1864)に現在地に本堂を再建。山門の仁王像はかつて山頂にあったもので、平成10年に移されました。いまではほとんどの巡礼者が麓の本堂で納経を済ませ、次の札所へ向かうとのことです。
※現在の富山福満寺:https://bosotown.com/archives/15616

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