9/20(水)ふらっとフットパス92を実施しました!

今回は、三芳が生んだ安房三名工の一人:武田石翁の生誕地や石翁ゆかりの普門院、本織神社、宝珠院などを巡り、併せて三芳が生んだ詩人:鱸松塘(すずき しょうとう)の生家跡を訪れました。
●コース(約8Km、平坦な道):
集合場所(三芳保健福祉センター近くの駐車場)→高子神社・三芳子ども園横経由→普門院→本織神社→元八幡経由→宝珠院・八坂神社→岩崎橋→平久里川沿いの道→富津館山線合流部→鱸松塘生家跡→集合場所(12時頃解散)
当日は晴天の暑さにも負けず、皆様、途中途中の説明を聞き、熱中症にならないように休憩も取り、長い距離を元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しまれました。
最後のお土産(新鮮な野菜)を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料や説明内容などはウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

いつもの出発前の体操中!

さあ、出発だ!

普門院の武田石翁作の延命地蔵半跏座像の説明中!

普門院の武田石翁作の延命地蔵半跏座像の案内板

武田石翁の誕生地を示す石碑がある本織(ほんおり)神社と違う本織神社

本織神社が2つある事についての説明中!

元八幡神社の説明中!

宝珠院の案内板

宝珠院の武田石翁の養父の小滝勘蔵作の地蔵菩薩

宝珠院の武田石翁の養父の小滝勘蔵作の地蔵菩薩の見学中!

宝珠院の観音堂(武田石翁作の十一面観音立像が有ったが、現在は別の場所に保管されています)

八坂神社の武田石翁作の狛犬を見学中!

休憩&クイズ中!

鱸松塘(すずき しょうとう)の邸宅跡の案内図

鱸松塘の説明中!

鱸松塘の邸宅跡の石碑

お土産の新鮮な野菜!

お土産を貰って解散だ!

◆フットパス92の説明配布資料等
1.武田石翁:
東京美術学校長の正木直彦が、明治後期、保田に避暑で訪れた時、武田石翁の作品に感銘し、石翁の事跡について、大正11年(1922)、「国家倶楽部」に「隠れたる彫刻家石翁の伝」として紹介しました。
安房の三名工の一人、武田石翁は、安永8年(1779)、本織村に生まれました。本名を鎌田周治と言い、幼い頃から粘土や竹木の細工を好んでいました。13歳の時、元名村(鋸南町)の石工、小滝勘蔵に弟子入りして才能を発揮しました。
そして、その才能を勘蔵に見込まれて、23歳の時、勘蔵の一人娘:いちと結婚し、婿養子になりました。
19歳の時には、白浜野島埼の厳島神社の七福神を彫り、25歳の時には、山萩(館山市)の福楽寺の宝塔の制作を、並み居る石工を押しのけて請け負いました。
40歳の時には、夢に龍を見て開眼し、渾身の龍の作品を彫り上げ、以降「石翁」と号したと伝えられます。
石翁は、石工としての仕事を離れ、芸術的な石彫り制作へ傾斜していき、師匠で妻の父である勘蔵との軋轢を生みました。そして、42歳の時、小滝家を追い出されましたが、とりなす人がいて、小滝家へ戻りました。しかし、小滝を名乗ることはなく、実家の祖先の「武田」を名乗り、武田石翁と言われました。
円熟された石彫りの技が発揮されるのは、黒蝋石による彫刻作品の制作においてです。60代~70代に石翁は、平久里川の河原で産出される黒蝋石を探し求め、獅子、龍、仏像、神像、文鎮など多種多様な作品を掘りました。
安政5年(1858)8月4日、80歳で亡くなりました。石翁の墓は、鋸南町元名の存林寺にあります。

2.松平容保(かたもり)に所望された二角龍:
武田石翁は、懇意の間柄だった米沢村の名主池田杢兵衛(もくべえ)に依頼され、天保11年(1840)、2尺に余る(60cm以上)黒蝋石で「二角龍」を彫りました。
会津藩主となった18歳の松平容保は、嘉永 ( かえい )6年(1852)4月、房総を巡視し、小浦の黒崎巡見の折、白井を経て富山に登りました。
「当日快晴 十一州余眼下ニ迫リ 絶景言語ニ尽ガタシ」との記録があり、富山からの眺望が気に入った松平容保は、「海山の 眺めはさすが 名にしおふ 四方の景色を 十見山(とおみやま)」と詠みました。
池田杢兵衛(会津藩の御用達を命じられていた)の家で、休憩された松平容保は、池田家にあった武田石翁作の「二角龍」を所望され、池田杢兵衛はこの彫刻を献上しました。この「二角龍」は、行方不明です。会津藩の江戸屋敷に飾られたと思われますが、幕末の戊辰戦争などで所在がわからなくなったと考えられます。

3.今回、巡る神社に残る作品等:
(1)普門院(真言宗智山派):

普門院延命地蔵半跏像

●延命地蔵半跏座(南房総市指定文化財):
文化11年(1814)、36歳の時の地蔵尊(安山岩)
※半跏座・・・片足を他の足の股の上に組んで座ること。

(2)本織(もとおり)神社:
安永8年(1779)の創健。祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)
●武田石翁の誕生地を示す石碑:
石翁の実際の誕生地は、この神社から200m程の所です。

本織神社

武田石翁の誕生地を示す石碑

(3)宝珠院(真言宗智山派):
●十一面観音立像(南房総市指定文化財):
文化3年(1806)、28歳の時の観音像
●地蔵菩薩:
寛政9年(1797)、岐阜の小滝勘蔵の作。
<ご参考>宝珠院の説明URL:http://history.hanaumikaidou.com/archives/6289

宝珠院十一面観音立像

養父小滝勘蔵作地蔵尊(宝珠院)

八坂神社狛犬

(4)八坂神社:
●狛犬:
天保13年(1812)、64歳の作。(銘は確認できず)

4.元八幡神社:
館山市八幡にある鶴谷八幡宮の前身の神社と言われ、養老元年(717)に安房国の総社として勧請された神社だと伝えられています。
鎌倉の鶴岡八幡宮を意識して海に面した安房国北条郷(現在地)に移されましたが、どの時点で移されたかは不明です。
永正5年(1508)、里見義通(3代)が、大旦那として修復しました。里見氏が大旦那という主催者になって安房国の「総社」を修復したことは、里見氏が安房を代表する立場になったことを意味します。
元八幡神社の境内には神供水(神に供える神水)の井戸があります。この井戸の水を用いて行われる神事が「御清水(おみず)送りの儀式」です。「やわたんまち(毎年9月14日から16日にかけて行われる安房地方の祭礼行事。安房国司祭とも呼ばれる)」初日の晩に、神輿を出す神社が合同で行う六所祭にお供えする水を汲む「お水取り」の儀式です。

元八幡神社境内

元八幡神社境内に存在する井戸

5.鱸松塘(すずき しょうとう):
幕末の詩人:鱸松塘は、本名を鈴木元邦(もとくに)といい、眼科医師:鈴木道順の長男として文政6年(1823)12月15日、平郡谷向村(三芳地区谷向)に生まれました。母は、平郡平久里下村(富山地区平久里下)の名主:原新左衛門の娘:まつです。
天保10年(1839)春、17歳の松塘は、江戸へ出て、梁川星厳の門弟となりました。梁川星厳は、当時、文においては頼山陽、詩においては星厳と言われる程の評価を受けていました。松塘は、星厳の門下生として研鑽を積みました。
松塘は、天保14年(1843)5月、21歳の時、「松塘小稿」を発刊し、その後も数々の詩集を出して、詩人としての地位を高めていき、松塘は明治31年(1898)12月24日、亡くなりました。墓は谷向の蓮花院にあります。
安房先賢偉人伝には、「鱸松塘は、詩を以て生命とする専門的詩人である。~略~ 実に房州の生んだ詩人中の詩人たるのみならず、我が日本に於ける古今漢詩壇中屈指の大作家であることは既に定評のある所である。」と記されているそうです。

※川正司・笹生浩樹氏等の作成資料・他から

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