11/22(水)ふらっとフットパス94を実施しました!

余蔵山(大台山)に登り、下山後は麓の平久里下・犬掛を巡りました。

今回のフットパスは、余蔵山(大台山)に登り、下山後は麓の豊受神社や犬掛古戦場跡(戦国大名里見氏の内紛「天分の内乱に関わる古戦場」)等、以下のコースを巡りました。
●コース:(余蔵山登山+平坦な道約3Km)
集合場所(旧松尾商店隣りの空き地)→釜戸原橋・原園芸ハウス前・茅葺き屋根の古民家 「ろくすけ」経由→余蔵山(登山・下山)→豊受神社・里見番所・犬掛古戦場→集合場所へ(12:00頃到着)
当日は小春日和の中、皆様、途中途中の説明を聞き、ダジャレ漢字クイズに答え、余蔵山頂上への急な登り坂も元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しまれました。
最後のお土産(新鮮な野菜)とプレゼント(お饅頭と柚子)を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料や説明内容などはウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

今回は出発前の音楽と歌での体操だ!

平久里下の原家の郷倉と高札場跡の案内板の説明中!

平久里下の原家

さあ、余蔵山へ向かって出発だ!

余蔵山へ向かう途中で「ろくすけ」前で休憩中!

茅葺き屋根の古民家 「ろくすけ」

余蔵山へ向かい林道を登り始め!

余蔵山へ向かう途中の平群花火工場へ向かう道と火事事故の説明中!

余蔵山頂上への登り口(結構急坂だな!)

やっと余蔵山頂上下の広場に着いたぞ!

「天分の内乱」と「犬掛の戦い」の説明中!

余蔵山の頂上から下り中!(下りも大変だ!)

下り道が長いな!

「犬掛の戦い」地への入口(長い下り道だったので、足のストレッチ中!)

長い下りを終えたぞ、平らな道は楽だ!

「村社 豊受神社」の説明中!(村社の範囲は?)

お土産は大根を含めた新鮮な野菜とプレゼントの柚木

プレゼント(2個目)のお饅頭

◆<フットパス94の配布説明資料>:
1.平久里下の原家:

平久里下の原家の祖先は、原新左衛門という人だと言われます。全国66か国の社寺を巡る行脚僧として当地を訪れ、土着したと伝えられています。原新左衛門については、豊受神社の棟札に「原新左衛門」の名前と「延宝5年(1677)」の年号が記されているので、その頃の人物と考えられます。そして、原家は代々名主を務める家となり、屋号が「余倉」と言われるようになりました。
原家の8代目にあたる人が原野水という人です。文化4年(1807)に生まれ、名は敬と言い、後に野水と号しました。詩文書画をよくしました。江戸の文人墨客との交流も盛んでした。中学校の歴史教科書にも出てくる江戸時代後期の画家・蘭学者で有名な渡辺崋山とも親交があったと言われます。
勝藏寺の「十王仏」(掛け軸)は原野水の大作で、全部で10幅からなり南房総市指定の文化財になっています。
近年では原進氏が昭和55年(1980)から2期8年、富山町長を務めました。

2.郷倉と高札場:
郷倉は、郷(国→郡→郷)に置かれた穀物倉庫で、江戸時代、年貢米の保管用に建てられたのが始まりで、一村または数か村ごとに建てられました。
寛延2年(1749)には、平久里下区の原家の近くに郷倉があったと伝えられています。江戸時代、米の収穫高の4割から6割が、年貢として取り立てられたので、「公租収納庫」として使われました。また、飢饉の時などの救済準備米を保管しておく「貯穀倉」としての機能もありました。郷倉の管理や防衛には、郷倉番や五人組が当たりました。
高札は、江戸時代、幕府や藩が法度(法令)類を民衆に周知させるため、横長の板札に墨書して高く掲示したものです。城下や代官所、名主の家の前、宿駅など人通りの多い所に建てられました。高札が建てられた場所を高札場と言います。平久里下区の原家の近くには、高札場の跡が残っていました。

3.余蔵山(大台山):
この山は房日新聞の忍足利彦さんが、「房州低名山」のシリーズで平成18年4月23日に取り上げました。その記事の中で、「この山は平久里下の原家(屋号:余蔵)の持ち山で、その屋号から地元では『余蔵山』と呼ぶ。」と書かれています。三等三角点はケンチブロックが築かれた山頂の一番高い場所があり、標高252.3mです。
新ハイキング社から出ている「房総のやまあるき」(内田栄一・川崎勝丸著)では「大台山」と表記されている山です。かつて、山頂には、『KDD富山中継所』の電波塔が建ち、周辺の山々からの目印になっていました。

4.大塚の豊受神社:
昔は、皇大神宮(伊勢神宮の内宮)につながる「天照皇大神宮」と称していたそうですが、明治初年の神仏分離、社名改号により、明治10年(1877)に「豊受神社」に改められました。「豊受」の名称は、伊勢神宮の外宮「豊受大伸宮」からきています。祭神は、「トヨウケビメノカミ」です。
明治6年(1873)3月、平久里下村の「村社」に指定されました。拝殿造営に関しては延宝5年(1677)を示す棟札もあり、名主原新左衛門、道師西福山米澤寺などの記載があるそうです。

5.「天文の内乱」と「犬掛の戦い」:

稲村城跡

房総里見家3代の里見義通の家督を継いだのは、嫡子の里見義豊です。家督を継いだ4代目の当主になった義豊は、稲村城(館山平野・鏡ヶ浦を見下ろせる標高64メートルの丘陵上に築かれ、東西・南北ともに500メートル規模を持つと推定される)で実権を握りました。
義豊は、天文2年(1533)7月27日、父の義通以来里見家の重要なパートナーになってきた正木通綱を稲村城に呼び付け殺害しました。同時に義豊の叔父にあたる里見実堯(さねたか)も殺害しました。このことをきっかけに里見家は内乱の状態になりました。これを「天文の内乱」といいます。
実堯が殺害されたという知らせを聞いた息子の里見義堯(よしたか)は、義豊に対抗するために百首城(富津市竹岡)に立てこもりました。そして、義堯は、義豊が敵対していた小田原の北条氏綱に援軍を要請しました。
義豊は義堯の支配地域に攻撃をしかけました。8月21日には、妙本寺城(鋸南町)を舞台に戦闘が行われました。この戦いは、妙本寺城、金谷城、百首城とつながる江戸湾沿いにある拠点の争奪戦でしたが、義堯が勝利しました。義豊は、9月6日には三浦半島にも出陣して北条氏へ直接攻撃を試みましたが、一日で退却しました。義豊方の拠点は次々に落とされ、9月24日、義豊は最後の拠点となった滝田城に立てこもりましたが、27日にはその滝田城も危うくなってしまい、上総の武田氏を頼り、真里谷城(木更津市)へと落ちのびました。
義堯は、滝田城主だった義豊の妹婿にあたる一色九郎を打ち取り、10月には安房国を制圧しました。真里谷城に逃れていた義豊は、翌年の天文3年4月になると反撃をはじめました。北条氏からは再び、義堯への援軍が派遣されました。
4月6日、義豊と義堯がそれぞれの大将となった直接対決が犬掛において行われました。激戦がかわされ、義豊軍方では数百人もの戦死者を出し、義豊も打ち取られました。義豊の首は小田原の北条氏綱に送り届けられました。
戦いに勝って5代目の当主となった義堯は稲村城には入らず、一時的に滝田城や宮本城を拠点にしたと考えられています。その後、義堯は、義豊に殺害された正木通綱の子どもである正木時忠らと上総へ勢力をのばし、久留里城に拠点を移していきました。
この戦いで里見義堯に協力した北条氏綱は、鎌倉の鶴岡八幡宮の造営(再建)への協力を義堯に求め、義堯は、天文5年安房の木材を鎌倉へ送りました。

<参考>・富山町史、ふるさと富山、その他

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