9/18(水)に「ふらっとフットパス102」を実施しました!
今回のフットパスは、大房岬公園内を歩き、朝ドラ「虎に翼」のロケ地と周辺にある南房総市の世間遺産「竜王の子の約束」や市指定天然記念物「釈迦寺の槇」等を以下のコースで巡りました。
●コース(約2時間30分):
集合場所(大房岬公園の駐車場)→大房岬公園内→世間遺産看板→釈迦寺→浅間神社・旧駒沢大学セミナーハウス裏経由→集合場所(11時30分頃解散)
6月以降の3か月振りのフットパスとなり、当日は快晴の中、多くの方々にご参加いただきました。有難うございます。_(_^_)_
今回、急な大房岬の下り登りで若干底辺でしたが、途中川名修さんのお楽しみクイズや上村さんの「竜王の子の約束」の昔話朗読を楽しみながら、皆様は元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しまれました。
また、今回も参加者の方がパウンドケーキ等を提供していだだき、皆さん喜んでおりられました。
最後のお土産(花束)とプレゼントのミニケーキを手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料はウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊
暑さの中なので木陰で受付中!
木陰で出発前のいつもの体操中!
日陰に移動しての本日の工程説明中!
さあ、出発だ!
好天気で海が綺麗!
NHK朝ドラの「虎に翼」のロケ地見学と説明を聞く!
昔話「竜王の子の約束」をお話し中です!
釈迦寺の槙の木
釈迦寺の槙の説明版!
槙の木の案内板を見ながら説明を聞いています!
釈迦寺
暑い!、でも集合場所まで後少しだ、頑張ろう!
お土産は花束だ!
プレゼントのミニケーキ!
お土産とプレゼント配布中!
<フットパス102の配布説明資料>
「大房岬とその周辺を歩き、朝ドラ「虎に翼」のロケ地を訪れます。「ふらっとフットパス102(令和6年9月)」
1.多田良地区について:
多田良地区は、南房総市富浦町の南端に位置し、館山市船形と境を接し、北側の富浦湾に面する北浜、鏡ケ浦に臨む西浜、その中間にある岡の小字からなります。
多田良は、「達良」や「多々良」とも書かれ、地名の由来は、多々良公の住居があったという説(和名抄)、多々良荘に起源があるとする説(延命寺文書)、古い製鉄業の蹈鞴(たたら)と関係があるという説などがあります。
2.大房岬について:
大房岬は、多田良地区にあり、東京湾に突き出た高さ約80mの台地状の岬です。北側と西側は断崖状になっていて、南側はおだやかな海岸になっています。
大房岬には、奈良時代に吉野の金峰山や大峰山を開いた、修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ・役ノ角:えんのおずぬ)の伝説があります。小角は、一時讒訴(ざんそ:他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること)によって、伊豆大島に配流になりました。時折房州にその姿を現わし、不逞の徒をたいらげ人々を安心させた。小角を尊敬する人々の求めに応じて、大房岬にも、不動明王の石像を刻み祀ったと言われます。(小角が不動明王を祀ったのが、大宝年間≪701~3≫だったから、この岬が「大宝岬」と呼ばれるようになり、「大房岬」に変化したという説もあります。)
その後、慈覚大師がこの地に堂舎を構え、瀧淵山竜善院と号したと伝わります。
永長元年(1096)に安房国の国司として徒任した源親元(みなもとのちかもと)は竜善院の堂塔を寄進したと伝えられます。
嘉永6年(1853)の黒船来航により、幕府は江戸の防衛を強化するため、各地に台場(砲台)を築きました。江戸湾の入口にあたる大房岬にも備前藩により西側の台地を上段、中段、下段に分け、計14門の大筒が備えられました。
明治時代に国際関係が厳しくなると、海軍が「大房岬」を敵であるロシア艦と見立てて、射撃の的にした訓練を始めました。(竜善院は、訓練が始まる前の明治33年≪1900≫に移転し、名称も「瀧淵神社」となりました。)
その後、大房岬には軍事施設が作られ、第二次世界大戦が終わるまで、一般の人の立ち入りが禁止されました。
3.NHK朝ドラ「虎に翼」:
日本初の女性弁護士の一人で、のちに日本初の女性裁判所長になった三淵嘉子さんをモデルにしたドラマです。
ドラマでは明律大学を卒業する時、女子部の仲間が海に出かけたところが描かれました。その撮影が行われた場所が、竜善院があった下の海岸でした。
9月11日付け房日新聞「展望台」に「展望台」の筆者の一人Uさんが書かれた「好物の団子なのに」が掲載されていました。Uさんは全国紙の政治部で法務省を担当していた時があり、以下のような趣旨の文を書いていました。「最近のドラマで常に仏頂面しか見せない先輩刑事:桂場(松山ケンイチ)が初めて少し笑って、盛り上がった。桂場のモデルは最高裁判所長官となる石田和外氏。法務省の担当記者をしていた時、私(U)は、石田長官を囲む懇談会に加わったことがある。ドラマの桂場と違ってにこやかな表情になることもあったが、強硬な姿勢は頑として変えようとはしなかったという記憶がある。」
4.竜王の子の約束(昔話):
むかし昔のある日、富浦の漁師たちが沖に仕掛けた網を引き上げていました。しかし、なぜかその日は不漁で、雑魚一匹掛かっていないのです。最後の網もあきらめながら引きますと、こんどは大きな手応えがあって、頭が竜のような怪魚が一匹上がったのです。「魚の獲れねえのは、こいつのためだっぺ。叩き殺してしまえ。」「いや、見たこともねえ気味の悪い奴だ。持ち帰って見世物にでも売るべえ。」漁師たちが勝手な言い合いをしていますと、驚いたことにその魚が口を利いたのです。「私は海の底に棲む竜王の子です。うっかり網にかかってしまいましたが、逃がしてくれたらお礼をします。」漁師たちは魚に答えました。「竜王様は俺たちを海から守る神様だ。その子なら逃がしてやるよ。お礼と言ったが、お前にできることなら何でもいいよ。」「お礼は、時化が近づいたら、海の底から太鼓を叩いてしらせます。約束しますよ。」逃がしてもらった魚は大喜びで海底深く消えて行きました。
そのときから、時化が近づくと、「ドドーン、ザザー。」と音がして、波が船に当たるようになったそうです。
5.釈迦寺の槙(まき):
釈迦寺の境内に、富浦町が昭和51年に天然記念物に指定した大きな槙の木があります(現在は南房総市の指定)。樹高はおよそ13メートル。根回りは6メートルもあり、樹齢は推定で900年から1100年と考えられています。この槙が人の手によって植えられたものか、自然に生えたものかわかりません。槙は雄と雌がありますが、釈迦寺の槙は雄ですので、実がなりません。
釈迦寺の創健は、江戸時代前期の寛文10年(1670)と伝えられていますので、推定どおりの樹齢であれば、釈迦寺の創健より550年以上前の平安時代から多田良の歴史を見守ってきたことになります。
6.多田良生まれの岡本善七と渋沢栄一:
多田良の茅野さんに見せていただいた本のコピー(何の本かは不明。雇用促進事業団監事の中村祐三氏が、「渋沢栄一・岡本善七と京華学園」の題で書いたもの)から岡本善七と渋沢栄一のつながりをまとめてみました。
昭和61年12月20日付け朝日新聞夕刊「“忘れられない肖像”明治25年頃。東京・白山にあった京華女学校でカメラにおさまる実業家・渋沢栄一(前列右から2人目)。渋沢の左は、所蔵者、牛丸京子さんの祖父・岡本善七。立志伝中の人で行商から身を起こし岡本銀行を設立した。その設立の相談相手になったのが渋沢栄一であった。」
上記の明治25年頃というのは、明治43年の誤り。京子さんは、典子さんの間違い。京華女学校は京華高等女学校が正しい。新聞に使用された写真は、明治43年〈1910〉10月10日、渋沢栄一が、4月に開校した京華高等女学校の校長:磯江潤からの要請で訓話をした際のものではないかと推定される。「立志伝中の人」以下の記述は、大正3年に実業之日本社から刊行された「奮闘立志伝」(題字:渋沢栄一)の中の「29 村落行商より立身したる岡本銀行の創立者 岡本善七氏」に基づいていると思われる、と中村祐三氏は書いています。
岡本善七は天保12年(1841 渋沢栄一より1歳年下)、安房国平郡多田良村(南房総市富浦町多田良)に生まれたが、家が貧しく10歳で親戚の池田家の養子になりました。19歳で故郷を離れ、横浜で倉庫係となりました。その後、一旦帰郷して池田家と離縁して、21歳の時、江戸へ上がりました。江戸では両替商山崎屋の丁稚になりましたが、山崎屋では安田善次郎(後に安田銀行を設立した人、安田銀行は、その後、変遷を経て、現在のみずほ銀行)も丁稚として働いていました。
善七は、明治5年5月、日本橋に両替商を開きました。翌年、類焼の難にあいましたが、直ちに家屋を新築し、業務の拡張を図りました。渋沢栄一の尽力を得て、両替商を営みながら、東京株取引所(その後の変遷を経て、現在の東京証券取引所になる。)の仲買として繁栄の道を辿り、明治23年(1890)1月に岡本銀行を創立しました。磯江潤は、この岡本善七と親交があり、京華高等女学校設立の資金を岡本銀行から借りました。
岡本善七は、明治43年(1910)12月20日に亡くなりました。岡本銀行は、昭和7年(1932)、二代目岡本善次の決断で解散したといいます。昭和5年に始まった昭和恐慌、世界恐慌による不況が影響したと考えられます。