11/27(水)「ふらっとフットパス104」を実施しました!

今回のフットパスは、深夜~早朝までの雨のため、山田地区にある御殿山の登山後に山田地区の山神社に寄らず、御殿山の登山のみとしました。御殿山に伝わる「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」伝説や石尊大権現、峰林山にある大黒様について考える、以下のコースを巡るウオーキングでした。
●コース(約2時間45分の登山):
集合場所(山田地区にある高照寺下の駐車場)出発(9時)→御殿山の登山・下山→集合場所(11時45分頃解散)
当日は雨後の青空の中、今回も多くの方々にご参加いただきました。有難うございます。_(_^_)_
今回は雨後の登山道のヌルヌルが心配でしたが、ほとんどヌルヌルが無い登山ウオーキングで良かったです。
キツイい登りや下りがある中、途中途中、川名修さんの史跡説明や漢字のクイズを楽しみながら、皆様は元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しまれました。
また、今回も参加者の方からパウンドケーキをいだだき、皆さん喜んでおられました。
最後のお土産(菜花と椎茸等の新鮮野菜)を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料はウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

出発前の体操中!

さあ、出発だ!

前半の登りはキツイな!

休憩&漢字クイズ中!

峰林山の大黒様の前で休憩中、眺めが良いです!、大黒様も拝みました!

御殿山頂上で「石尊大権現」の石祠や山名の由来等説明中!

御殿山山頂への回り道、倒木跨ぎが大変!

帰りの登り階段は若干大変!

集合場所まで後少しだ、頑張ろう!

色づいた銀杏が綺麗!

登山ウオーキング終了、今回行かなかった「山神社」等の説明中!

今回のお土産(なばなや椎茸等新鮮野菜)

<フットパス104の配布説明資料(追記あり)>
秋の御殿山に登り、下山後は麓の山田地区を歩きます。→ 今回か山田地区は歩きませんでした!
「ふらっとフットパス104(令和6年11月)」
1.御殿山の前山:峰林山(大峰山)
御殿山の手前の山を峰林山または大峰山と言います。山の稜線に、高さ90cm程の俵に乗った大黒様石像が鎮座しています。石工は常五良で制作年は不明ですが江戸時代中期と思われます。元々は麓の川辺集落の人々が集落の福を願って造ってもらったものですが、「山田全体に福を授けた方がいいのでは」という声が出て、山頂に担ぎ上げたと言われています。
大黒様は、七福神の一人で大黒様と言われます。「天」は仏の一種です。元々はインドのヒンズー教の神様ですが、仏教に取り入れられ、日本では、大国主命(オオクニヌシノミコト)と習合しました。財や食物をもたらす開運招福の神様(仏様)として信仰されています。

2.御殿山:
標高363.9mで、通称「おっぱい山」と言われました。「往古、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征し、安房の国を平定したとき、四方を一望できるこの山の山頂に御殿を造った」との説や、「里見氏は、このあたりの山で、しばしば鷹狩りをし、そのとき御殿を造ったところを『御殿山』と呼ぶようになり、隣の『鷹取山』もそのいわれであろう」という説があります。
※御殿山(363.9m)、富山(349.5m)、伊予ヶ岳(336.6m)

3.日本武尊(ヤマトタケルノミコト)伝説:
8世紀ごろ、「古事記」や「日本書紀」が天皇の命令でつくられました。これらには、大昔のこととして、天からこの国土に下った神々の子孫が、大和地方に入って国をつくり、やがて日本の各地を統一していった話などがのっています。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の話もその一つで、複数の人物の事業を一人の人物の話としてあらわしたのではないかと考えられます。
焼津での危難を脱したヤマトタケルは、三浦半島の走水から房総半島へ渡ろうと船に乗りました。しかし、海を渡っている途中で海が大きく荒れて、船が沈みそうになりました。その時、妃の弟橘比売(オトタチバナヒメ)が、海神の怒りを鎮めるため、荒れ狂う海に身を投げました。すると、荒れ狂っていた海は鎮まり、ヤマトタケルの一行は、無事に房総半島に着く事ができました。
・流れ着いたヒメの袖を祀る ⇒ 木更津市の吾妻神社
・   “    櫛を祀る ⇒ 富津市の吾妻神社
・流れ着いたヒメの袖に関わる地名 ⇒ 袖ヶ浦市(習志野市にも袖ヶ浦がある)
・流れ着いたヒメの櫛に関わる地名 ⇒ 岩井海岸の久枝、他
・ヒメの亡骸が流れ着いた島 ⇒ 勝山海岸の島(操をたたえて操島→みさご島)
・日本武尊が東征し、安房の国を平定するとき、四方を一望できる山の頂上に御殿を造った。 ⇒ 御殿山

4.大山(相模)と御殿山:
御殿山の山頂には、「石尊大権現(せきそんだいごんげん)」を祀る石祠「せきし:神をまつる祠堂や祠宇、祠屋を石で造った小祠『しょうし:小さなほこらや小さな社(やしろ)』」があります。この神仏は相模の大山「阿夫利(あぶり)神社」の祭神であり、雨を呼ぶ神力を有する神と信仰されました。江戸時代、大山は江の島と並んで江戸近郊の観光地のようになり、関東一円で大山講も組織され、大山講が盛んになりました。
大山寺縁起には「山頂に石尊大権現を祀り、中腹の堂塔僧坊は不動明王を本尊とした」と記されているそうです。
御殿山も山頂より少し下がった所に石仏「不動明王」2基があります。1基は頭部が欠落、上体部もかなり欠損している明王坐像です。台座には、「寛政8年(1796)5月 願主 丸の宮下村塩井戸の藤原正智、世話人 平久里中村、若者中」と刻まれており、この像の造立に宮下村と平久里中村が関わっていたことがわかります。もう1基は平板に「不動明王」が線刻されており、「明治拾七年建替」とあります。御殿山も大山にならって、山頂に石尊大権現、中腹に不動明王をお祀りしたものと考えられます。

5.山神社と大山祇命と大山昨命:
山田区の山神社の創立年代は不明ですが、山神社に関わる山田区の古文書に「元禄5年(1692)」の記載が見られるので、元禄5年以前と考えられるそうです。
山神社には、大山祇命(オオヤマツミノミコト)を主神として、大山昨命(オオヤマクイノミコト)も合わせて祀られています。
大山祇命は、山を管理する神です。イザナギノミコトとイザナミノミコトの子どもです。二神の間に生まれた主な神々は、天照大御神(太陽の神・皇室の祖先)、月読命(ツクヨミノミコト:夜を支配する神)、大綿津見神(オオワタツミノカミ:海を支配する神)などです。
大山祇命の娘が、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)で富士山の神様です。富士山本宮浅間大社をはじめ、全国の浅間神社に祀られています。
大山昨命も山の神です。大山昨命は、近江国の日枝山(比叡山のこと)に鎮座され、葛野(かどの)の松尾(京都の松尾大社のこと)にも鎮座され、鳴鏑(かぶら:音をたてて飛ぶ矢)を使う神とされています。

山神社の鳥居

山神社の本殿

狛犬は天保十年(1839年)亥年二月吉日と彫られています。

6.朝夷出身の防人(さきもり):
万葉集の巻二十には、天平勝宝7年(753)2月に築紫(ちくし:後に筑前国と筑後国に分割された。現在の福岡県の西部と南部。)に派遣された諸国の防人の歌が84首載っています。その中に、朝夷郡(あさいぐん:安房国(千葉県)にあった郡)の丸子連大歳(まるこのむらじおおとし)の「家風は 日に日に吹けど 我妹子 家言持ちて 来る人もなし」(家の方から風は毎日吹くけれど 我が妻からの言伝てを持って来る人はいない)というふるさとを偲んで詠んだ歌があります。奈良時代の昔、丸子連大歳が住んでいた丸山地区(推定地は莫越山「なこしやま」付近)から任地に向かう時、幾度となく、振り返ったと想像される風景が御殿山を含む嶺岡山系です。
<参考>:ふるさと富山、神社めぐり、他

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