2/26(水)「ふらっとフットパス107」を実施しました!

今回のフットパスは、以下のコースで鋸南町上佐久間のお寺や神社を巡り、佐久間に生まれた偉大な政治家:曽根静夫について考えるウオーキングでした。
●コース(約7.2km):
集合場所(旧佐久間小学校)出発(9時)→密蔵院→十王堂→嶺岡林道A地点→嶺岡林道B地点→光明寺→金銅寺・日枝神社→往生寺→集合場所(12時頃解散)

今回も多くの方々にご参加いただき、有難うございます。_(_^_)_
今回も晴天の中、途中嶺岡林道も通り、偉大な政治家:曽根静夫氏やお寺、神社の説明を楽しみながら、皆様は元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しまれました。
最後のお土産(花束:金魚草)を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料はウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

光明寺

曾根静夫氏のお墓へ

曽根静夫氏のお墓

曽根静夫氏のお墓の前

曽根静夫氏の説明中!

金銅寺へ向かう途中

金銅寺へ向かう途中2

金銅寺

金銅寺梵鐘の説明版

金銅寺の梵鐘

金銅寺の鐘楼建築記念の碑

金銅寺の「御詠歌」の碑

金銅寺の安房国霊場十一番の「御詠歌」

日枝神社

日枝神社の狛犬1(文久二年(1862年)奉献)

日枝神社の狛犬2(文久二年(1862年)奉献)

往生寺看板

往生寺へ向かう道の「御堂下橋」

往生寺の山門

往生寺

往生寺の軒下飾り

お土産の花束

お土産の花束(金魚草)

【配布説明資料(追記あり)】:
上佐久間の寺社を巡り、佐久間に生まれた偉大な政治家:曽根静夫について考えます。「ふらっとフットパス107(令和7年2月)」
1.佐久間氏発祥の「佐久間」:
源頼朝が竜島に上陸した時、三浦義村も同行しました。その三浦義村の従弟:多々良家村(浦賀の多々良)が佐久間郷に住み着き、佐久間氏一族が誕生しました。鎌倉幕府が成立した後、有力御家人であった和田義盛が殺されますが、義盛の孫:朝盛とその子は、佐久間へ逃れ佐久間氏にかくまってもらいました。朝盛の子は、佐久間家盛を名乗り、承久の乱(朝廷と鎌倉幕府の戦い)では、鎌倉方として戦い、戦功をあげ、現在の勝浦市と名古屋市に領地をもらい、子孫がその地に移り住み、各地に佐久間氏が広まったと言われています。その中には戦国時代、織田家の家臣になった佐久間一族もいて、信長の家臣としては佐久間信盛が有名です。

2.日本画家:伊藤深水と佐久間
昭和に活躍した日本画家:伊藤深水は、一時佐久間に来ていたことがあります。明治31年(1898)、東京深川に生まれた伊藤深水は、幼い頃から絵を描くのが好きでしたが、家が貧しく、働きながら夜学へ通いました。そんな若き深水に、何かと援助を惜しまず懇意にしたのが、深水の自宅近くに住んでいた佐久間出身の医師:福原道太郎でした。深水と親しくなった道太郎は、大正5年(1916)頃から、夏になると、深水をよく上佐久間:別子(べつし:諸侯の嫡男・嗣子以外の子)の実家に連れてきました。
深水は、本妻との間に2人の息子をもうけましたが、料亭「勝山」の女将:勝田麻起子との間に朝丘雪路をもうけました。

3.密蔵院(谷の不動尊):
本尊は不動明王の座像です。宝亀元年(770)の良弁僧都(そうず)の作で相模の大山不動と同木同作と伝わっています。源頼朝が安房へ来た時、参詣し、その後、征夷大将軍になったため、「立身不動尊」とも言われます。

サクマクジラ化石

天保5年(1834)、大嵐の後、住職が近くの山崩れの場所で「怪石」を発見し、「蛇骨」として寺に奉納したそうです。その蛇骨を昭和54年に国立科学博物館が鑑定したところ、2000万年前の鯨化石と判明し、「サクマクジラ化石」と命名されました。房総半島最古の鯨化石です。2000万年前は、この地も海で鯨がいたのです。

4.不動橋:
明治42年(1909)、佐久間川の支流に架けられた橋です。石積みのアーチ橋です。今は上部が拡張舗装されています。この道は、かつて保田地区の市井原や小保田への街道でした。

5.十王堂:

十王堂

佐久間の十王堂は、鎌倉時代の創建といわれ、堂内の十王像は、33cm前後の桧材寄木造りです。古くから仏祭り、霊送りの行事で名高く、特に新盆の霊送りは「じょうど送り」と称され、8月15日の晩に参詣する習わしが今でも続いていて、「佐久間の祭礼(まち)」は参詣者で賑わいます。昔は、三芳や船形方面からも参詣者がありました。

6.光明寺:
金剛山光明寺といい、三芳の延命寺末で、本尊は釈迦牟尼仏(シャカムニブツ:お釈迦様(釈迦如来)の尊称)です。延命寺の寺伝によると、永生17年(1520)、里見実堯(さとみさねたか)の祈願により、越前の梵貞(ぼんてい)禅師が延命寺を開山したと言われます。その後、梵貞禅師は、延命寺を弟子に譲り、佐久間に来て、天文10年(1541)、光明寺を開山したと言われます。
曽根静夫のお墓があるお寺です。「奥山が生んだ偉大な政治家:曾根静夫」については、別紙参照

7.金銅寺(安房国札11番札所):
御詠歌=はるばると のぼりて見れば こんどう寺 はぎのはしらは五六千本
和銅2年(709)、行基(ぎょうき)菩薩が自ら刻んだ聖観世音菩薩像を本尊として、小萩坂西之野というところに開基したと伝わります。弘安3年(1280)、僧玄助が、小萩坂西之野から射した光と雲に導かれ、聖観世音菩薩像を探し当て、萩を束ねて柱とし、茅(かや)を覆って屋根としたと伝わります。(御詠歌の「はぎのはしらは五六千本」の謂れ)
奇雲が立ち込めたところに金銅仏が現れたので、「奇雲山金銅寺」と号しました。文安5年(1448)に現在地に建てられたそうです。
梵鐘は、大山(鴨川市)の藤原忠直の作で、その昔の美しさは、「西海の波に透徹し、富山の月を吼破(こうは)し、一村無明長夜の憂を覚す」と言われたそうです。この梵鐘は、太平洋戦争中の金属回収令で供出されました。戦後、山梨県の長生寺の梵鐘になっていることが分かり、昭和58年に里帰りが叶いました。

8.往生寺(安房国札10番札所):
御詠歌=おうじょう寺 のぼりて見れば ちしゅのはな いつもたえせぬ のりのこえかな
階段を上がると境内中央の正面奥が阿弥陀如来立像を安置した密厳院(みつごんいん)本堂で、左手前が往生寺の観音堂で、密厳院の境内に併祀(へいじ)されています。
往生寺は、寛仁元年(1017)、恵心僧都の創健で、本尊の聖観世音菩薩坐像も恵心の作と伝わります(一説では運慶作とも)。江戸時代には、徳川家から朱印30石を賜ったこともあるそうです。観音山とよばれる裏山の頂上付近に平地があり、往生寺跡と言われるそうです。

<参考>「鋸南町史、鋸南町の歴史、安房国札観音霊場巡り、その他>

◆別紙:【曾根静夫】―奥山(おくやま)が生んだ偉大な政治家―
鋸南町奥山は、昔から政治に関心を持つ若者が多く、皆で集まって議論したり勉強したりする奥山改新社(現在の奥山公民館)という建物にありました。

曾根静夫

そんな奥山で、江戸時代末の1845年(弘化2)に生まれた曾根静夫は、明治時代の政界で活躍した偉大な政治家です。
農家の三男に生まれた静夫は、幼いころから、頭がよく、とくに数学にすぐれた才能をみせました。また剣も北辰一刀流に学んだ腕前だったと言います。
明治になり、立身をこころざして東京へ出た静夫は、本所(東京都墨田区)の医者の書生(住み込みの学生)となります。そのころ、明治政府は「地租改正」を行おうとしていました。年貢ではなく、すべての土地に、お金で税金を取ろうとする制度です。おそらく地主たちの猛反発が予想された政府は、まず試験的にある県で地租改正を試すことになり、その担当の職員として、肝がすわって、計算に強い人物を探していました。たまたま静夫は推薦されて、農商務省に勤めることになり、試験的な地租改正を行う担当になりました。1872年(明治5)、28歳の時です。
静夫の実力は発揮され、やがて全国の地租改正の事務を指導するまでになりました。

曾根静夫の手紙

1877年(明治10)、鹿児島で西郷隆盛らの西南戦争が起こった時、静夫は鹿児島県庁の第一課長を務めていました。西郷軍の県庁明け渡し要求をはねのけて、県庁を守り通したのは曾根静夫の度胸のよさです。西郷とは交流があったらしく、後に西郷隆盛の墓標の字は、静夫が書きました。

その後、時の大蔵大臣、松方正義に抜擢されて大蔵省へ移り、最も得意とした会計事務、予算の編成を担当しました。

1890年(明治23)、我が国初の帝国議会が開かれる時には、予算案政府委員を務めて力を発揮しました。明治維新以来、日本の国家財政の予算決算は、おおざっぱなものでしたが、正確に行われるようになったのはこのころからで、それは曾根静夫なくしてはできなかったと言われます。今日の日本の国家予算の編成のしかたの道すじを決めたのは、曾根静夫だったと言っても言い過ぎではありません。大隈重信も財政の問題では、まず静夫に意見を聞いたと言います。
日清戦争では資金調達に走り回り、台湾統治では、乃木希典総督の下で台湾民生局長に任命されて、台湾の民政に力を尽くしました。
その後、山形県知事、北海道拓殖銀行の創業と頭取就任など、多方面で活躍した静夫は、1903年(明治36)5月30日、亡くなりました。静夫はふるさとを深く愛していて、奥山の知人や旧友が東京の自宅に訪ねてくると、仕事はできるだけ早く切り上げて帰宅し、心から歓迎したと言います。
文骨されたお墓は奥山に建てられ、現在は上佐久間の光明寺に移されています。

曾根静夫氏のお墓(光明寺)

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