3/26(水)「ふらっとフットパス108」を実施しました!
今回のフットパスは、「里見の日」が記念日にされたことにちなみ、三芳地区にある里見氏ゆかりの滝田城跡に登り、周辺にある長谷寺(ちょうこくじ)など歴史的な伝説が残る地を以下のコースで巡りました。
●コース(約7.0km):
集合場所(みよし交流館)出発(9時)→長谷寺→滝田城麓(旧三芳農協)→滝田城登山→滝田城麓(高月口)→ミルク農協東側・十三塚経由→知恩院下経由→集合場所(12時頃解散)
今回も多くの方々にご参加いただき有難うございます。_(_^_)_
今回は晴天で夏日の中、休憩&水分補給を多く取り、上り下りがちょっとキツイ滝田城跡を登り、途中途中、川名修さんの史跡説明やクイズを楽しみながら、皆様は元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しまれました。
また、今回も参加者の方からパウンドケーキをいだだき、皆さん喜んでおられました。
最後のお土産(新玉ねぎ)とプレゼントのみかん🍊を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料はウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

いつもの出発前の体操中!

休憩&クイズ中!

長谷寺(ちょうこくじ)向かう途中!

長谷寺(ちょうこくじ)

滝田城へ向かう途中1(大津鼻の里→安房グリーンラインへ向かう東仲尾沢トンネルへの入口の通行止め)

「東仲尾沢トンネルへの入口の通行止め」の理由を説明中!

滝田城へ向かう途中2(旧三芳農協前でケーキをいただき休憩中!)

滝田城遊歩道案内板

滝田城址登山道入り口(高月口)から登山開始!

滝田城址登山中!

滝田城本丸跡地

滝田城址頂上(展望台)

滝田城などの説明中!

知恩院へ向かう途中1!

知恩院へ向かう途中2!

前方の大木の当たりに犬掛の合戦で討死にした義豊方の武将十三人を供養したという「十三塚」がある!

道の先に知恩院があります(今回は時間が無く寄らず)

集合場所へ向かう途中(shuu集合場所まで後少しだ、菜の花畑が綺麗!)

お土産(ミカンはプレゼント)!

お土産間新玉ねぎ!

お土産お渡し中!
【配布説明資料(追記あり)】:
「里見の日」が記念日登録されたことにちなみ、里見氏ゆかりの滝田城に登ります。「ふらっとフットパス108(令和7年3月)」
1.3月13日は、「里見の日」:
「里見のまちづくり実行委員会」は、3月13日が語呂合わせで「さ・と・み」と読めることから「里見の日」として記念日登録するよう一般社団法人日本記念日協会に申請を行い、登録が承認されました。
2.里見家の一族争い(天文の内乱):
里見義豊(4代)は、天文2年(1,533)7月27日、父の義通(3代)以来里見家の重要なパートナーになってきた正木通綱を稲村城に呼び付け殺害しました。同時に義豊の叔父にあたる里見実堯(さとみさねたか)も殺害しました。このことをきっかけに里見家は内乱の状態になりました。これを「天文の内乱」といいます。
実堯が殺害されたという知らせを聞いた息子の里見義堯は、義豊に対抗するために百首城(富津市竹岡)に立てこもりました。そして、義堯は、義豊が敵対していた小田原の北条氏綱に援軍を要請しました。
義豊は義堯の支配地域に攻撃をしかけました。8月21日には、保田の妙本寺城を舞台に戦闘が行われました。この戦いは、妙本寺城、金谷城、百首城とつながる江戸湾沿いにある拠点の争奪戦でしたが、義堯が勝利しました。
義豊は、9月6日には三浦半島へも出陣して北条氏へ直接攻撃を試みましたが、一日で退却しました。義豊方の拠点は次々に落とされ、9月24日、義豊は最後の拠点となった滝田城に立てこもりましたが、27日にはその滝田城も危うくなってしまい、上総の武田氏を頼り、真里谷城(木更津市)へ落ちのびました。
義堯は、滝田城主だった義豊の妹婿にあたる一色九郎を打ち取り、10月には、安房国を制定しました。
真里谷城に逃れていた義豊は、翌年の天文3年4月になると反撃をはじめました。北条氏からは再び、義堯への援軍が派遣されました。4月6日、義豊と義堯がそれぞれの大将となった直接対決が犬掛において行われました。激戦がかわされ、義豊軍方では数百人もの戦死者を出し、義豊も打ち取られました。義豊の首は北条氏綱に送り届けられました。
滝田城の麓には「川又古戦場」があり、上滝田真名板には義豊方の家臣で討ち死にした13人を葬ったという「十三塚」があります。
戦いに勝って5代目の当主となった義堯は稲村城には入らず、一時的に滝田城や宮本城(八束)を拠点にしたと考えられます。
その後、義堯は、義豊に殺害された正木通綱の子どもである正木時忠らと上総へ勢力をのばし、義堯は久留里城に拠点を移していきました。
3.滝田城:
滝田城は、安房と上総を結ぶ平群街道をおさえる重要な位置を占めており、西は宮本城まで2km、東は丸山方面にも通じるという東西南北の陸上交通の交点にありました。天文2年(1533)に勃発した「天文の内乱」を記録する「快元僧都記」に出てくる城で、当時の城主は、一色九郎でした。九郎の先祖は鎌倉公方の側近であり、里見とは同格の立場でしたが、里見が安房の国主の立場になると、里見の家臣になったと言われます。一色九郎は、里見義豊の妹を嫁に迎えていたので、「天文の内乱」では、義豊方につき、義堯に滅ぼされ、滝田城も落とされました。
滝田城は、戦国時代の終わりまで、何らかの形で使われていたと考えられるそうです。

「滝田城跡」平成14年 御子神 勲 作成
4.虚実混在で楽しみが増した八犬伝:
2月20日に行われた毎日新聞企業人大学定期講座で、近世史研究家の高山宗東(むねはる)氏が、南総里見八犬伝について以下のように述べました。
里見家の最期の当主:忠義は安房から鳥取の倉吉に国替えになり、不遇の中で若くして亡くなった。忠義に殉じた家臣8人は「八賢士」と呼ばれた。馬琴はそれをもじって「八犬士」とした。実在した里見家を用いたことで虚実が混じり、文学がさらに楽しめる設定になっている。南房総市にある滝田城跡は、八犬伝で伏姫の父の居城として描かれているが、実際に里見家(一色家)の城だった。「伏姫がこの城に住んでいたのかな」などと、物語の世界でも想像すると楽しい。物語に変な信ぴょう性ができるのが面白いところで、馬琴はすごい人物だ。虚実を入り乱されるために、馬琴は綿密な考証を行っている。
5.八犬伝が大好きだった渋沢栄一:
2021年のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」は、渋沢栄一を主人公にしたドラマでした。「晴天を衝け」では、24歳の渋沢栄一が尊王攘夷運動に加わり幕府方の上野国(群馬県)の高崎城を奪う計画を立てる場面が描かれました。その談合場面で、「八犬伝に出てくる里見義美が安房の滝田城を乗っ取ったようにすればよい」という主旨の台詞がありました。
この大河ドラマに合わせて始まった毎日新聞の連載「渋沢栄一を歩く」には、「栄一は、7歳から毎日、尾高家(母親の実家)に通い、尾高惇忠(おだかあつただ:栄一の従弟)から論語などを学んだという。惇忠の指導方法は、より多くの書物を通読させるものだったので、栄一は自然と読解力を身に付けることができた。栄一は読書を愛し、南総里見八犬伝などの小説類や歴史書など幅広く読んだ。」と書かれていました。
また、作家の城山三郎が、渋沢栄一を描いた「雄気堂々」には、「かつて尾高新五郎(惇忠)は、栄一たちに学問の手ほどきをするのに『里見八犬伝』や『通俗三国志』など、読みやすくおもしろい書物から入るのがよいと、すすめた。栄一は『八犬伝』を愛読したが、今度の城攻め(高崎城を奪う計画)にあたって、その『八犬伝』の中に出てくる手口を使うことにした。夜ふけ、提灯を手にした百姓数人が城門に立って、『火急のおねがいがございます』と、訴え出る。門番が門を開いたところへ一気に乱入し、寝込みを襲って城中を制圧しようというのである。」と書かれています。
渋沢栄一が生まれたのは、天保11年(1840)で、八犬伝が完結したのは、天保413年(1842)でした。
6.長谷寺(ちょうこくじ:安房国札13番札所):
御詠歌=とりすやま おくわけゆけば にしのやつ 長こく寺とは めいしょなるもの
御詠歌にあるように下滝田の「西ノ谷」と呼ばれるところにあります。鳥数山長谷寺と号し、真言宗智山派に属します。本尊は十一面観世音菩薩です。行基菩薩の開基と伝えられる寺です。口伝によると、昔、観音山と言われた山の山頂にあったそうで、弘化3年(1846)頃、現在地に移築されました。
※9番札所=信福寺(保田:12月のフットパス)、10番札所=往生寺(佐久間:2月のフットパス)、11番札所=金銅寺(佐久間:2月のフットパス)
7.知恩院:

宝徳3年(1431)2月の開基と伝えられる寺です。このお寺の場所は、「仏知山」という字名で、「ぶっちやま」と呼ばれます。
地蔵菩薩を本尊としてお祀りしている寺で、真言宗智山派に属します。明治元年9月に書かれた「知恩院由緒書」によると、「源頼朝が安房へ逃れて来た時、知恩院へ参詣し戦捷(せんしょう)祈願をした」と言われます。
下滝田基地(桜花43乙型発射基地)の滑走路に使用されたレールが、この寺に残されています。
<ご参考>館山市立博物館「さとみ物語」、安房国札観音霊場巡り、他