2/27(火)「ふらっとフットパス97」を実施しました!

今回のフットパスは、山田に広がる嶺岡西一牧(5牧ある嶺岡牧の1つ)の麓を歩き、荒川に残る歴史構造物である「石橋」や「高梨牧場跡」を以下のコースで巡りました。
●コース (約7.5Km):
集合場所(平群地区山田にある高照寺)→川名宅角経由→嶺岡西一牧下→上の台橋→荒川の石橋→上の台橋→県道山田線経由→牧士の墓→集合場所(11時45分頃解散)
当日は千葉からの可愛い女の子も参加され、小春日和の中、皆様、途中途中の説明を聞き、ダジャレ漢字クイズに答え、途中の菜の花や早や咲き桜等を鑑賞しながら元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しまれました。
最後のお土産(新鮮な野菜)を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料や説明内容などはウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

いつもの出発前の体操中!

さあ、出発だ!

「嶺岡西一牧」近くの路を行く!

嶺岡西一牧」の説明中!

菜の花が綺麗に咲いていました!

川名牧士の説明を聞く!

川名牧士の墓石とお地蔵様

荒川に向かう、早咲き桜が綺麗に咲いていました!

荒川沿いを行く!

珍しい荒川の岩石が玄武岩溶岩の場所の説明中!

荒川の石橋

石橋を渡っています!

小山の上の「上の台」の説明中!

出羽三山塔碑

5大明王の降三世明王(安房では数少ない)の文字塔

上の台の下りは急坂だわ!

上の台の下りは急坂は後少しだよね!

お土産は何かな?

<フットパス97の説明資料>:
平群地区の山田に広がる嶺岡西一牧の麓を歩き、荒川に残る石橋を訪ねます。
1.大嶺山高照寺:
山田の川名家の古文書によると川名籐七郎が永禄年間(1558~1570)に高照寺を建立したとあるそうです。高照寺は、曹洞宗のお寺です。本尊は地蔵菩薩で、安房国108ヶ所地蔵菩薩の29番札所になっています。
また、安房国札観音巡礼の15番札所になっています。これは、高照寺の上にある大椙山(おおすぎやま)にあった椙福寺の十一面観世音菩薩(行基菩薩作)が大正7年(1918)に高照寺境内に移されたからです。高照寺には、椙福寺の鰐口(わにぐち:仏前前面の軒に吊るされた大きな鈴。永年3年≪1431)の銘がある)もあります。

2.嶺岡牧の一つ「西一牧」:
嶺岡牧は、戦国時代には里見氏の管理下にあったといわれます。江戸時代になると徳川幕府の管理下に置かれました。幕府の直轄牧は愛鷹牧(あしたか:静岡県)、小金牧(松戸市)、佐倉牧、嶺岡牧の4つでした。中でも嶺岡牧は、現存する牧跡としては、日本一の規模を誇ります。
嶺岡牧は嶺岡山系と、それに隣接した柱木山に形成された牧です。当初は、東ノ牧と西ノ牧に区分されていましたが、徐々に整備拡張され、徳川吉宗の時代の享保12年(1721)に「東上牧」、「東下牧」、「西一牧」、「西二牧」、「柱木牧」の5つの牧に分割されました。
西一牧は、他の牧と違い東京湾岸に注ぐ河川の流域にありました。また、牧内に大規模な寺院(大椙山の椙福寺)があり、周辺の寺院などと一体となった祈りの場でもありました。
<嶺岡牧の維持:管理を担った六十六か村>:
牧の管理・維持のために幕府より任命された牧士の指示のもと、周囲の村の農民が従事していました。それが野付(のつけ)・野続(のつづき)村の人々です。野付・野続村は合計六十六あり、六十六か村と呼ばれ、この村々に住む人たちが牧の管理を行っていたのです。つまり、幕府は嶺岡牧を管理するにあたり、私たちの祖先である嶺岡牧ふもとの村人に、実質的な作業を分担してあたらせていたのです。

3.川名牧士旧宅及び墓地:
幕府は、馬や牛の扱いに慣れている地元の農民を「牧士(もくし)」と呼ばれる牧場の統括管理者に採用しました。西一牧では、牧の南半分に牧士の家が4軒あったそうです。
宝暦5年(1755)11月の「惣仲ヶ間由緒書控」によると、「山田村牧士川名与右ヱ門は、享保7年(1722)4月牧士拝命、延享2年(1745)まで24年間務め病死、子の市郎右衛門は享保18年(1733)牧士見習い、延享2年12月牧士拝命、宝暦4年(1754)まで10年間務め病死。市郎右衛門の弟伴蔵は宝暦4年4月跡役に在勤・・・」とあるそうです。
川名牧士墓地には延享2年当時の墓石が確認出来ます。

4.高梨牧場:
安房郡産牛組合発行の「産牛案内第二輯(しゅう)(1912年10月31日)」に、以下の記載があります。「平群村は産牛地の名、往時より高し。畜牛頭数の多きこと本郡第一位に位す。平群村荒川区に高梨牧牛場あり。明治41年、米国カリフォルニアのスリッピンハロー牧場より、フランチベッートと名づくる優良牝牛を輸入し、良犢(りょうとく:良い子牛)の産出に精励しつつあり。」

当時の高梨牧場(『安房酪農百年史』)

5.上の台橋付近:
平久里川と荒川が合流する「上の台橋」近くには、「星厳橋」(荒川側)、「紅蘭橋」(山田側)があります。漢詩人で勤皇攘夷の志をもった梁川(やながわ)星厳・紅蘭の夫婦は江戸時代に出た平久里中の加藤霞石と交流があり、天保12年(1841)には、平久里中の加藤家を訪問しました。歴史に名を残す人が平群を訪問したという事実を後世に伝えるため、平群の人たちは夫婦の名前を橋に付けました。
上ノ台には文化11年(1814)の馬頭観音や文化5年(1811)の出羽三山塔碑2基と5大明王の降三世明王(安房では数少ない)の文字塔があります。(5大明王は、密教の仏で、不動明王を中心に四方に配された明王。中央=不動明王、東=降三世明王、南=軍茶利明王、西=大威徳明王、北=金剛夜叉明王)

<ご参考>:荒川の石橋

荒川の石橋

<参考>:
・富山町史、ふるさと富山、鴨川市発行「嶺岡牧」、他

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