1/17(火)「ふらっとフットパス86」を実施しました!

今回のフットパスは、佐久間地区の密蔵院、八幡神社、十王堂など巡り、小説家の勝目梓が新日本百景の一つに選んだ「江月の水仙ロードにある富士山絶景ポイント」を訪れました。
当日は曇り空の中、江月の水仙ロードにある富士山絶景は観れず、水仙ロードはアップダウンの急な坂道でしたが、皆様は綺麗な水仙や梅🌺、早咲き桜🌸を観れて、ワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しみながら、最後の新鮮なお野菜のお土産を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●コース(約8km):
旧佐久間小学校→密蔵院→石橋→仲尾原→赤伏→江月の富士山絶景ポイント→鶴ヶ峰神社→赤伏→八幡神社→十王堂→集合場所駐車場へ(11時30分頃解散)
●今回の説明資料はウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

出発前のいつもの体操!

密蔵院に向け出発!

密蔵院で説明を聞く!

不動橋(橋の下を見ないと分からないな!)

江月へ向かう途中(坂道になってきたな!)

江月水仙ロード(坂がキツイけど水仙が綺麗!)

江月水仙ロードの水仙(満開で綺麗!)

江月の名所に向かう途中!

江月の頼朝一行が名馬を手に入れたお礼に馬賀性を与えた説明看板

江月の富士山絶景ポイント(新日本百景)(あいにくの曇りで見られず、残念!)

八幡神社へ向かう途中(下りで楽だわ!、梅🌺や早咲き桜🌸も咲いていて素敵!)

八幡神社で説明を聞く!

八幡神社と十王堂の間に建てられた源氏の白旗にちなんだ白旗神社(旧佐久間小学校の裏にあります)

十王堂で説明を聞く!

ウオーキング後のお土産だ(ネギ、カブラ、なばな等)!

◆今回のウオーキングで配布した説明資料:
1.佐久間氏の地:
源頼朝が竜島に上陸した時、三浦義村(2022大河ドラマでは山本耕史)も同行しました。その三浦義村の従弟:多々良家村(浦賀の多々良)が佐久間郷に住み着き、佐久間氏一族が誕生しました。鎌倉幕府が成立した後に、和田合戦で有力御家人であった和田義盛(和田氏も三浦氏と同族:2020大河ドラマでは横田英司)が殺されますが、義盛の孫:朝盛とその子は、佐久間へ逃れ、佐久間氏にかくまってもらいました。朝盛の子は、佐久間家盛を名乗り、承久の乱(朝廷と鎌倉幕府の戦い)では、鎌倉方として戦い、戦功をあげ、現在の勝浦市と名古屋市に領地をもらい、子孫がその地に移り住み、各地に佐久間氏が広まったと言われています。その中には戦国時代、織田家の家臣になった佐久間一族もいて、信長の家臣としては佐久間信盛(2023大河ドラマでは立川談春)が有名です。

2.密蔵院(谷の不動尊):
本尊は不動明王の座像です。宝亀元年(770)の良弁僧都の作で相模の大山不動と同木同作と伝わっています。源頼朝が安房へ来た時、参詣し、その後、征夷大将軍になったため、「立身不動尊」とも言われます。

蛇骨(2000万年前の鯨化石)

天保5年(1834)、大嵐の後、住職が近くの山崩れの場所で「怪石」を発見し、「蛇骨」として寺に奉納したそうです。
その蛇骨を昭和54年に国立科学博物館が鑑定したところ、2000万年前の鯨化石と判明し、「サクマクジラ化石」と命名されました。房総半島最古の鯨化石です。2000万年前は、この地も海で鯨がいたのです。

3.不動橋:
明治42年(1909)、佐久間川の支流に架けられた橋です。石積みのアーチ橋です。今は上部が拡張舗装されています。この道は、かつて保田地区の市井原や小保田への街道でした。
●市井原(いちいはら):
江戸期は市井原村。地名は「いつ(厳)・い(川)・はら(原)」の転訛で険しい山の間の川沿いの平坦地を指したもの。
●小保田(こぼた):
江戸期は小保田村。地名は「ふる(古)・ほた(湿地)」の転訛で崖地の湿地という意味。

4.江月:
頼朝一行が江月で一頭の名馬を手に入れました。この馬は、後に頼朝の家来:佐々木高綱の馬「イケズキ(生食)」となり、「スルスミ(磨墨)」に乗った梶原景季と宇治川の先陣争いをしました。「スルスミ」は、和田の磑森(するすもり)でとれた馬だと言われます。
江月の一番奥に鶴ヶ峰神社が鎮座します。神社下の馬賀家は、屋号が「禰宜(ねぎ)どん」と言い、神主を務めていたと考えられます。「馬賀」という姓は、頼朝にこの地の名馬を献上した時に賜った姓と伝えられます。
●江月(えづき):
江戸期は江月村。地名は「え(江)・すき(剥き)」の転訛で川の側の地辷り地を指したものか。

5.新日本百景に選ばれた「江月峠から見た富士山」:
文芸春秋の「オール読物」2005年1月号に作家・文化人が薦める「新日本百景」が掲載されました。その一つが、作家の勝目梓が選んだ「江月・水仙ロードの富士山」です。勝目氏は、「江戸の昔から知られた水仙の産地で、集落を縦断する農道は水仙ロードと名付けられている。水仙ロードの途中には、海から立ち上がった姿の富士山が望めて、その風情の美しさには感嘆の声をあげる。」と記しています。

6.八幡神社(はちまんじんじゃ):
明治6年(1873)に佐久間下村(鋸南町中佐久間)の「村社」に格付けされました。
元々は、十王堂の鬼門の方角である上佐久間の別子(八幡台)に健治元年(1275)に勧請された神社です。この時の「棟札」で、表には「健治元年乙亥十二月七日 隅田佐兵衛藤原康能」とあり、鋸南町指定の文化財です。八幡台と十王堂の中間地には、源氏の白旗にちなみ白旗神社が創健され、魔の侵入を防いだと伝わります。
応永9年(1402)に裏鬼門にあたる現在地に還座されました。ここには、元々、六所神社(武蔵国府中から勧請されたと考えられる)がありました。

7.十王堂:
十王堂は、鎌倉時代の創建と言われます。頼朝が征夷大将軍に任じられた2年後の建久4年(1194)、頼朝は、再起の地となったこの地に謝恩の意をこめて、梶原景時(2020大河ドラマでは中村獅童)に命じ、成就院(廃寺)と十王堂を創建させたと言われます。堂内の十王像は、33cm前後の桧材寄木造りです。
昔、「悪いことをすると閻魔さまに舌を抜かれるよ」などと言われましたが、閻魔王のように〇〇王と言われる仏が十人いるとされ、十王仏と言います。
人は死ぬと、初七日より七日ごとに十王仏の前へ連れ出され、生前の裁きを受け、その判決によって、来世の運命が決まると考えられていました。
十王仏信仰は、死後の世界への不安から起こり、唐の時代の末ごろに道教と融合して成立し、日本へは鎌倉時代に伝わりました。
ここの十王堂は古くから仏祭り、霊送りの行事で名高く、特に新盆の霊送りは「じょうど送り」称され、8月15日の晩に参詣する習わしが今でも続いていて、「佐久間の祭礼」は、この参詣者も加わり賑わいました。
<参考>
鋸南町史、鋸南町歴史散歩マップ、公民館講座の資料、他

コメントを残す