【連載】とみやま地名探訪:検儀谷

検儀谷はかつては検儀谷原といいました。明治時代に岩井村ができ検儀谷区となり原が消えました。原は集落の意味で、鎌倉時代に荒川村に住んでいた池田直政という武士の弟らが検儀谷に移り村の名を創ったと古文書にあり集落があったことがうかがえます。
検儀谷の地名は、検見(毛見)から来たと思われます。毛儀谷がやがて検儀谷と書かれるようになったことから毛見→検見という検地に関係すると推察できるからです。
検儀谷には天正屋敷という小字があります。小字は一筆の土地を示すもので屋敷がついた小字が隣り合う二部や一部にもないことからしかるべき身分の人物が住んでいた可能性があり、調べてみると検儀谷の尾根にあった寺が火災で焼け麓に寺を移した場所が天正屋敷と呼ばれたようでした。この寺が現在二部にある勝善寺です。
天正屋敷の隣には大勝院という古寺があります。この寺には竹で編んだ籠阿弥陀という仏像があることが知られていますが、もともとは勝善寺のものでした。大勝院と勝善寺は関係が深く、なんらかの事情で籠阿弥陀を大勝院に安置したようです。この阿弥陀様は耳の不自由な人に御利益があるそうです。
検儀谷の西側の飯之坂は、鋸南町からのトンネルができる前は賑やかな宿場でした。今はその面影もありませんが、往時を偲ぶ古道を見ることができます。
昔から人口こそ少ない検儀谷ですが、幕府の回状を読むと、米のほかに渋柿、筍、蓬、縄筵、フキノトウを一定数納めるよう書かれていました。検儀谷は今も昔も自然に恵まれた豊かな土地だったようです。               (徳永忠雄)
●追記:7月号で紹介した「伊予ヶ岳」で、石鎚山(一五〇〇m)と誤った記載をしました。正しくは(一九八二m)でしたので訂正いたします。

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