10/23(水)「ふらっとフットパス103」を実施しました!
今回のフットパスは、小説「銀の匙」で有名な中勘助が書き残した日記風の随筆:「貝桶」にある小浦海岸、大蘇鉄、橋場屋旅館跡などを以下のコースで巡り、中勘助について考えるウオーキングでした。
●コース(約8km):
集合場所(富山ふれあいスポーツセンター駐車場)→岩井コミセン→岩井駅経由→市部の踏切→大蘇鉄→岩井神社横経由→小浦の神明神社→高崎海岸→岩井海岸の菊池寛石碑→集合場所(11時30分頃解散)
当日は若干の曇り空の中、今回も多くの方々にご参加いただきました。有難うございます。_(_^_)_
今回は平地での若干長いウオーキングでしたが、上村さんの小浦の「枇杷落とし哀話」の昔話朗読を楽しみながら、皆様は元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しまれました。
また、今回も参加者の方がパウンドケーキ等のご提供と小浦の「角文旅館」様からのお菓子の差し入れプレゼントをしていだだき、皆さん喜んでおられました。
最後のお土産(柿とお饅頭)を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料はウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊
出発前の工程説明中!
昔、たび屋が有った岩井の場所の説明中!
岩井駅前を通過!
岩井駅前の伏姫公園の伏姫・八房の銅像の説明中!
岩井の蘇鉄の説明版
岩井の蘇鉄の見学中!
小浦の村社神明社の見学中!
神明社でお参り
小浦の「枇杷落とし哀話」の朗読中!
「枇杷落とし哀話」の紙芝居
「枇杷落とし哀話」の場所の説明中!
小浦の「角文旅館」様からのお菓子の差し入れプレゼント!
高崎海岸を行く!
岩井海岸の「菊池寛の石碑」
お土産は柿とお饅頭!
<今回の配布説明資料>
作家:中勘助ゆかりの岩井海岸を歩き、岩井地区を巡ります。
「ふらっとフットパス103(令和6年10月)」
1.中勘助と小説:銀の匙
角川文庫の中に中勘助が書いた「銀の匙」という小説があります。明治時代の東京の下町を舞台に、成長していく少年の日々を描いた自伝的小説で、夏目漱石が、「きれいだ、描写が細かく、独創がある」と称賛した名作です。明治大学教授の齋藤孝は、著作の中で、「旧制灘中学時代から50年間、国語教師として勤務していた橋本武さんは、戦後、『銀の匙』を読み尽くす授業を長年にわたり実践しました。この授業が始まった頃から、公立高校のすべり止めに過ぎなかった灘高は東大合格者を多数輩出する名門高校になっていきました。」と書いています。
2.岩井を愛した中勘助:
角川文庫「銀の匙」の巻末に年譜が出ていて、大正13年(1924)2月の項目に「千葉県安房郡岩井村の橋場屋に滞在」と記載されています。大正12年9月の関東大震災からようやく立ち直りかけた大正13年2月、39歳の中勘助は旧友と岩井の橋場屋旅館を訪れました。
中勘助が残した日記風の髄筆「貝桶」の2月16日に、「それはどこまでも一筋に長くのびて、よく繁った生垣(地図の✕印)のあいまにぽつりと店屋などがある。
私はこれが油屋だなとか、ここ(地図②「天屋」、③「たび屋」は、穀屋だな、などと思いながら歩く。私は思いついた誰かれに絵葉書を出そうと思って、万屋の店(地図⑤「をさしま」)へ入った。売れ残りの絵葉書の中に、紙一杯に蘇鉄が描かれた絵葉書があった。『安房名所岩井村大蘇鉄』とある。)と書かれています。
岩井駅前・市部の通りの地図
中 勘助(50歳)
そして、市部の通りを過ぎ、竹内網代家の大蘇鉄を見物し、久枝の浜辺をさまよい、仙水(久枝海岸)で貝殻を拾い、小浦の浜でも沢山の貝殻を拾ったと、貝桶にあります。そして、こころよいリズムと美しい言葉で岩井海岸を歌い上げています。
「わぎもこを なことはいはじ 安房の浦の 夢のかよひぢ 波はよろとも」
(私の愛しい人と「奈呉の浦」でとは言いませんが、ここ「安房の浦」でいいので、夢の中で逢いたいものです。わぎもこ=我妹子:枕詞。なこ=奈呉:富山県射水市の「奈呉の浦」・万葉集に現れる地名。)
「小浦のはまに きてみれば さくら貝 帆貝 きぬがさの 貝もよれ その貝の なな色におう この浜を わたつみの 宝の浜とこそ よばめ あわれこのはま」( ~ その貝の七色に美しく染まる浜を 海の神の宝の浜と名付けよう ああ 素晴らしいこの浜辺よ)
3.岩井海岸と文人:
海岸線は南北に約4kmで、北の久枝海岸のごく一部と南の小浦海岸に岩礁がみられます。久枝と高崎の海岸約3kmは砂浜で、海水浴に、渚の散歩に好適地です。
岩井の海に海水浴客が来遊し始めたのは明治の頃で、明治23年(1890)に東京湾汽船会社が設立され、その後、東京・房州間で汽船が就航すると徐々に海水浴客が増えていきました。岩井の海は、遠浅で広い砂浜をもつ子どもに適した海として、関東一円に知られるようになりました。太平洋戦争で一時中断した臨海学校も昭和23年頃から再開され、ピーク時の昭和39年頃は700校もの学校の子どもたちが来ました。「恩讐の彼方に」「忠直卿行状記」などの作品で知られる作家の菊池寛は、「遠あさの海きよらかに、子等あまた群れあそびゐる 岩井よろしも」と読みました。菊池寛は、昭和3年(1928)から同7年まで毎年のように、家族や仲間と岩井を訪れ、高崎の米屋旅館に滞在しました。
絵葉書が入っていたカバーです。
小浦海岸の夕日
小浦海岸の風景です。大小の木船が往来して、当時の賑わいが伝わります。
岩井海水浴場(盛夏の午後)で、大勢の方が海水浴を楽しんでいます。
明治30年初め、旧制第一高等学校の水泳部合宿所が、館山市八幡の「江戸屋」に設けられました。合宿所に屯する学生たちが歌い出したのが、「デカンショ節」です。明治36年夏、一高二年の岩波茂雄(岩波書店の創業者。昭和2年には「岩波文庫」を創刊。)は、合宿所の喧騒を避けるため岩井の橋場屋旅館を探し当て、この田舎の旅館をこよなく愛しました。岩波茂雄の一級下に中勘助、山田文吉、安倍能成などがいて、彼らも橋場屋旅館に逗留しました。
4.岩井の大蘇鉄:
竹内地区の網代家にある大蘇鉄は、高さが8m、根回りが6.5mもあり、樹齢千年余りと言われています。昭和10年(1935)には、千葉県の天然記念物に指定されました。
頼朝が、安房へ逃れてきた時のことですが、この家の前を通り、あまりにも大きな蘇鉄が目に入ったので、その素晴らしさをたいそう褒め称えたという伝説が伝わっています。竹内から高崎方面へ進むと、境に小さな川が流れています。この川には、丸太を並べただけの橋がかかっていました。頼朝がやって来たのを見かけた村人たちは、恐縮して家々から蓆(むしろ)を持ち出し、橋を覆いました。頼朝は、村人に「ご苦労であった」と声をかけ、通ったそうです。現在の頼朝橋です。
5.小浦の薬王院:
寺伝では、奈良時代の僧:行基(ぎょうぎ:東大寺の大仏を造るのに努力したお坊さん)が開いたお寺で、薬師如来も行基が作ったと言われています。
阿弥陀如来が、「後世利益」といって亡くなった人を極楽浄土へ救ってくれる仏さまに対して、薬師如来は今の世で救いの手を差し伸べてくれる「現世利益」の仏さまとして知られています。左手に薬壺(やっこ)といわれるツボを持ち、この薬を用いて人々の万病を治し、寿命を伸ばし、衣食を満たしてくれます。
この薬王院は、正式には大鳥山薬王院興隆寺と言います。明治8年(1875)県庁の方針で、廃寺にすることが決められましたが、小浦の人々の強い要望で存続が決定しました。その後、昭和17年(1942)に久枝の蓮台寺に合併しました。
現在は、「薬師堂」だけ残っています。
「安房国四十八ヶ所薬師如来霊場」という巡礼をする霊場があります。安房国の「平郡(鋸南・富山・富浦・三芳)と安房郡(館山)」を東口・西口・南口・北口の4地域に分け、薬師如来を祀る寺をそれぞれ12ヶ寺選び、「薬師如来霊場」としました。北口12ヶ所の内、9ヶ所が富山地区内にあります。
薬王院は、北口8番札所になっています。
御詠歌:ごくらくの らいせのきしを ながむれば なぎさにうかぶ ふねのかずかず
<参考>・富山町史、ふるさと富山、他