9/25(木)「ふらっとフットパス112」を実施しました!

今回のフットパスは、原岡に伝わる「愛宕権現」や興禅寺の「勅額(ちょくがく)」・「青岳尼」などの伝承について考えながら、以下のコースを巡りました。
●コース(約8km):
集合場所出発(大房岬公園の駐車場:9時)→旧駒大セミナーハウス前経由→世間遺産看板→多田良・原岡海岸→岡本桟橋→富浦小横経由→愛宕神社→富浦中前経由→興禅寺→富浦体育館経由→元気倶楽部→天満神社→旧駒大セミナーハウス裏道入口→集合場所(11時45分頃解散)
今回も多くの方々にご参加いただき有難うございます。_(_^_)_
晴れて暑い中、海岸沿いも歩き、途中途中、川名修さんの史跡説明やクイズを楽しみながら、皆様は元気にワイワイガヤガヤとウオーキングを楽しまれました。
最後のお土産(落花生とさつまいも)を手に「次も楽しみにしていますよ!」と帰途に着かれました。
●今回の配布説明資料はウオーキング中の写真の後に記載されていますので、ご一読いただけると嬉しいです。😊

いつもの出発前の体操中!

岡本桟橋にて!

愛宕神社と御神木の説明中!

愛宕神社の御神木(楠)の説明版

興禅寺の青岳尼(しょうがくに)供養塔説明版

興禅寺観音堂

市庁舎付近の風景

お土産(落花生とさつまいいも)

お土産をお渡し中!

富浦の多田良から原岡へ歩き、愛宕神社や興禅寺を訪れます。
「ふらっとフットパス112(令和7年9月)

1.原岡の愛宕神社:
400年以上も昔の話ですが、遠国大名:里見氏の軍勢が守っている岡本城に、毎夜、妖怪が現れて武士たちを悩ませました。大将の里見義頼は軍勢の士気が衰えるのを恐れ、上総の久留里から霊魂あらたかな愛宕大権現を移して祀り、妖怪を退散させました。
本殿には御神体が2体も祀られていました。1体は常に本殿に安置しておくものであり、もう1体は合戦が起きた時、戦場に運び勝利を祈願するためのものでした。
明治になり政府から神仏分離令が出されると、愛宕大権現は愛宕神社に名を改めました。
※権現=仏が神に姿を変え、現れたもの。

2.愛宕神社に祀られる神様:
天上界である「高天原」にいたイザナギとイザナミは、下界に国をつくることを命じられ、国を産み出していきました。国を産み終えた終えた二柱の神は、多くの神々を産みました。古事記には「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」を最後に23柱の神々を産んだと書かれているそうです。イザナミは、「火の神」である「火之迦具土神」を産んだ時、陰部に火傷を負い、命を落としてしまいました。
火之迦具土神は、火伏せ(火災を防ぐ)の神様として神社に祀られました。その中心となる神社が、京都市右京区嵯峨にある「愛宕神社」です。この地は、修験の地としても栄えたところから、修験者によって全国各地に愛宕神社が建てられていきました。

3.火伏せの愛宕様:
昔むかし、強い南風が吹いた時です。多田良のある大きな家から火事が起きました。火の粉が風に乗って舞い、原岡の集落の上まで飛んできて大騒ぎになりました。その頃の消火方法は手桶で水をかけるか、龍吐水という水鉄砲で水をかけるのがせいぜいでしたから、強風の火事場ではなんの効果も上がりませんでした。「もうだめだ」と、すっかりあきらめ、呆然と立ちすくむ原岡の人々の目に思いがけない状況が映りました。それは、馬上から大きな御幣(ごへい:神祭用具の一つ。紙または布を切り、細長い木にはさんで垂らしたもの)を打ち振り、「火伏せの神:ひのかづちのかみ、霊験によって、原岡城内を守らせ給え。」と叫びながら集落を駆け巡る愛宕神社の田代神官の姿でした。
「愛宕様が守ってくださるかもしれぬ! 頑張ろう。」
人々は勇気を奮い起こして、降りかかる火の粉に立ち向かい、原岡の集落は類焼から免れることができました。

4.祝い歌 愛宕まいり:
原地区には、昔から「愛宕まいり」というめでたい歌が伝わっています。愛宕神社の正月の歌い始めや、おびしゃ(主に関東地方の村落で行われる、弓矢で的を射てその年の豊凶を占う神事)とか、お祭りの花返しの時など、若い衆によって歌われました。
愛宕まいりに袖をひかれて
これも愛宕の御利生(ごりしょう)かやおめでたや
家の末繁盛 オッシャシャンのシャン

5.興禅寺:
貞和元年(1345)、夢窓国師が開山したと伝わりますが、不詳です。
戦国大名:里見義弘の夫人:智光院殿(青岳尼)が、開基したことは確実と言われます。安房国札観音霊場の5番札所で、観音堂には行基菩薩作と伝わる十一面観世音菩薩が祀られています。
<山門手前の六地蔵>
昭和の初めに建てられたもので、作人として千倉の彫刻師後藤義孝の銘があるそうです。
<青岳尼(しょうがくに)>
青岳尼は、天文7年(1538)の国府台合戦で討死した小弓公方:足利義明の娘です。義明の遺児たちが、里見義堯(さとみ よしたか)を頼って安房に落ち延びたことから、青岳尼もその中にいたという説があります。その後、鎌倉で尼になり、鎌倉五山筆頭の太平寺の住職になりました。弘治2年(1556)、義堯の子:里見義弘は、小田原の北条氏との戦いで、城ケ島を攻略し、鎌倉まで攻め入りました。その時、義弘は幼なじみだった青岳尼を安房に連れ帰り、還俗させ、正室にしたと言われます。
<勅額:普済>
金泥入りの文字で「普済」と彫られた額が、本堂にあるそうです。この額は、永徳3年(1383)9月に、後小松天皇が、夢窓国師の生前の功に報いるため、鎌倉の端泉寺へ下賜したものです。「普済」とは、夢窓国師に与えた贈り名で、「広く人々を救う」という意味です。
享保元年(1716)、無外碩珍(せきちん)というお坊さんが、荒廃した興禅寺を復興しましたが、同門の端泉寺からお祝いとして「普済」の額が送られてきたとのことです。

本堂正面の勅額

里見義弘が使った印象

<参考>富浦の昔ばなし、その他

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